2008年3月28日 (金)

どちらが不寛容か

 自称「研究家」や、その説を支持する人がよく言うセリフに、「学者は新説に対して不寛容だ」 というのがある。自分の「既得権益」を侵されたくないから、スクラムを組んで「新規参入」を妨げているのだと、最近はやりの「規制緩和」派の言い分をそのまま学界にも適用しようとするわけである。

 研究者の書く論文を全く読んだことがない人なら、こう言われるときっと納得して同情を感じることであろう。「そうだ、ちょっとくらい話を聞いてあげてもいいじゃないか、新しい試みを認めてあげてもいいじゃないか」と。

 そう思っている人がもし

研究者の行う研究は、他者に対しても寛容である。

と聞いたら、「え? 何かの間違いじゃないの?」と声を上げるに違いない。

 文学研究の場合を中心に話を進めるが、学術論文では通常、最初にそれまでの先行研究を挙げて、その問題点を指摘してから、自分の考えへと移るスタイルを採る。しかしそこをよく読むと、問題の指摘はするけれども、全面否定はせず、「どの説も一理あるが、また100パーセント同意できるものでもない」というスタンスで書かれているのが普通である。最後まで読んでみても、 「この説以外にはあり得ない、他の説は全部間違い」などという叙述にはまずお目にかからないであろう。

 つまり新説を発表する際には、自分と見解を異にする説に対しても、それが長い年月の淘汰を経て確乎たるものになった基礎的知識に立脚している限り(ここが大事)、 全面否定して排撃するという態度はとらない。 文学研究の場合なら「そのようにも読めるけれども、こういう読み方もできるのではないか、こちらの読み方の方がよりすっきりするのではないか」という風に、 他説の存在も認めた上で、ケルンの上に新たな石を一つ積むように、自分の説をそっと積み上げるのである。

 そしてすべての人が自説を受け入れてくれるよう要求するようなこともしない。おとなしく読者の判断にゆだね、それで反応が思わしくなければ、自分の至らなさを認めて、次に向かってさらに研鑽を積めばよい。もし論争になっても、決着がつくまで相手を徹底的に論破しようとは考えず、言うべきことを言ったらいい加減なところで打ち切って、評価はやはり読者の判断にゆだねる。学界での渡世とはそういうものである。

 対して自称「研究家」の「研究」はどうだろうか。彼らの「研究」の多くは、基礎的知識を知らないか、無視しているか、敵視している。 そうしない限り成り立たない説だからである。故に基礎的知識を否定し、それに立脚しているすべての研究を否定し、それらを支持する学界を否定し……という具合に、自説以外のすべてを否定することに懸命になる。 他説の存在を寛容に認めている限り、最後は自己否定にしか行き着かないからである。

 しかも彼らは自説が思うように支持されないと、途端に所かまわず出没しては、支持を訴えて騒ぎ出すから始末に負えない。某巨大掲示板の学問板をのぞいてみれば、支持しない人を片っ端からやっつけようと暴れている人が必ず見つかるものである。恬淡と百年後に知己を待てばいいものを、どうしてこうもせっかちなのだろうか。

 いかに寛容な学者といえども、最初から他者を否定しておいて、その他者に「受け入れてくれ」と迫るような虫のいい人にまで寛容になれるはずがないのは、あまりにも当然の道理である。「お前の母ちゃんデーベーソ、でも仲良くしてね」などと言う人にわざわざ仲良くしようと思う聖人君子もしくはお人好しが、この世にいるとは思えないのだが。

 「寛容だと言うなら、文句言わず好きなようにやらせておけばいいじゃないか」と言う人もいることであろう。 全くもってその通りである。大半の学者は自称「研究家」に対しては、やめろとも何とも言わない。 ただ相手にしていないだけのことである。研究者の発表する研究であっても、つまらなければ誰も何も言ってくれない。労力をかけて批判するに値する研究でなければ、批判さえしてもらえないのである。

 新しい研究を発表する自由は誰にもある。しかし発表しさえすれば 「注目される権利」「称賛される権利」が当然についてくるわけではない。 この当たり前のことがわかっていないと、鼻つまみ者への道をまっしぐらになってしまうのであろう。

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そんなら、客でいたまえよ。――あるいは「学界とオーケストラ」――

 学界に身を置く研究者は、論文を送りつけてくる自称「研究家」には、多くの場合無視するか、よくても儀礼的な挨拶、あるいは皮肉やほめ殺しで体よくあしらうことが多い。これに対して不平不満を抱き、学界への怨み言をたらたら吐き続ける自称「研究家」も数多くいる。

 しかし学界と一般の人の関係は、実はオーケストラの団員と客の関係に似ている。

 オーケストラの演奏会では、舞台と客席とは完全に分離されている。演奏するのは舞台の上の団員だけで、客はせいぜい拍手を送るか、曲によっては手拍子をするくらいである。お座敷や盆踊りのように、客も歌い手も一緒になって騒ぐということはまずない。

 たとえどんなにすばらしい演奏の腕前を持っていたとしても、客でいる限り、勝手に舞台に上がって演奏することは許されない。 そんなことをすれば演奏会は台無しになる。そもそもオーケストラとはそれぞれの楽器が個性を発揮しながらも、 全体としての調和が取れた演奏をするものである。どんなに上手な人でも、オーケストラの中で好き勝手に目立とうとしたら、曲はめちゃめちゃになってしまう。だからオーケストラは一定のレベル以上の団員だけで演奏するのであって、誰でも好き勝手に飛び入りすることは許されないのである。

 客は曲がすばらしければ盛大な拍手を送るし、つまらなければ席を立って帰るのも、次から聴きに来ないのも自由である。しかしどれだけ下手な演奏でも、「何だ何だ、俺様の演奏の方がよっぽどうまいぜ!」と舞台に乱入し、団員の楽器を奪い取って演奏する自由というのはない。そんなことをすれば間違いなく外へつまみ出されることになる。それを見て「この人だっていい演奏してるのに、団員も頭ごなしに決めつけずにもっと謙虚になってはどうか」などと言う客が果たしているだろうか。

 どうしてもオーケストラの舞台に立ちたいのなら、厳しい練習を積んで団員になるか、それがいやなら自分で団を組んで演奏会を開くかどちらかになる。しかし後者の場合、ウィーン・フィルやN響と同じような注目を浴びることは当然無理である。せいぜい地元住民の間で評判になる程度の、分相応の注目で満足するしかない。


 学界もオーケストラと同じで、一人一人の研究者はそれぞれ独創性のある研究をするけれども、学界全体としてはこれまで蓄積された学識との整合性がちゃんと取れているのである。その調和を乱すような研究、たとえば先行研究を全く無視したり、基礎知識を踏まえないままで、自分一人だけで思いついたことを好き放題開陳するような研究は、よい研究とは認められない。

 もし研究者の発表する研究が気に入らなければ、その人の本を読まないようにするのも、批判するのも自由である。しかし自分が代わって「舞台」に立とうとすれば、学界からも、学問をわかっている「客」からも反発を買うのは当然である。学界が外部からの参入を容易に許さないのは、オーケストラと同じように、一定のレベルを保つことで、学問全体の調和を乱さないようにするためである。その代わり「客」を満足させられるだけのレベルの研究を提供できるよう、日々研鑽を積んでいるわけである。

 学問で「舞台」に立ちたいという場合も、オーケストラの場合と同じことがいえる。「客」でいる限り、ブーイングを浴びせようと、本を地面に叩きつけようと、その行為自体を禁止することはできない。しかし「舞台」に勝手に乱入しようとする迷惑な「客」は、有無を言わさず閉め出さざるを得ないのである。研究者は自分の研究が学界全体に資するかどうかを考えて仕事をするが、自称「研究家」は自分だけが目立って賞讚されることしか頭にない。 自分一人のために学問そのものがめちゃめちゃになることなど想像もつかないのであろう。少なくとも彼らの言動を観察する限り、そうとしか受け取れない。こんないい了見の持ち主を喜んで「団員」に迎える「オーケストラ」などあろうはずはないし、そう考えれば「学者は素人の研究も頭ごなしに否定せずにもっと謙虚になったらどうか」などというのがどれほどナンセンスかはもう明らかであろう。謙虚や傲慢云々の問題ではなく、単に「ダメなものはダメ」 と言っているにすぎないのである。

 どうしても「舞台」に上がりたいのなら、プロの研究者と同様に厳しい(独りよがりではない)研鑽を積むか、それがいやなら自分で学会を組織し、自分で雑誌を発行して「舞台」をこしらえることである。但し本物の学会と同じように注目されることなど当然期待しない方がよい。家族や友人知人に「すごい」と言ってもらえる程度の、分相応の注目で満足することである。楽をしていい思いをできる道など世の中にはない。


 土田世紀の漫画「俺節」に、確かこんな場面があった(ずいぶん前に読んだきりなので、細部は違っているかも知れない)。デビューを目前にしたロックバンドを率いるボーカルの羽田が、場末の酒場で偶然耳にした流し演歌にしびれてしまい、バンドを解散して頭を丸め、演歌の大御所・北野波平(誰がモデルかは言わずもがな)に弟子入りを志願した。波平の前で羽田に発声をさせてみせたボイストレーナーは「ジャンルは違っても歌は歌だ」と絶讚し、レコード会社のスタッフも「ひとつ育ててみませんか?」と勧めるが、波平は「お断りだね」と一蹴、演歌を歌おうとする動機に問題ありだと言う。抗弁する羽田に波平は

「そんなら、客でいたまえよ。
歌っているより、歌を眺めていたまえよ。」

と言い、羽田が思わず罵声を浴びせようとしたその刹那、波平は顔をずいっと近づけて一喝、

「声なら負けねえぞ!」

 このシーンの北野波平は実にかっこいい。私もこのセリフには素直に打ちのめされた。

 私は大御所でも何でもないから(よって私にケンカを売って言い負かしたところで、それで学界の風向きががらりと変わって自分になびいてくれるということは期待できない)、波平のまねなどおこがましいことこの上ないが、それは承知でやはり言いたい。「そんなに学界が不満なら、客のままで好き放題言ってたらどうです? 自分で研究をするより、研究を眺めている方がよっぽど気楽ですよ」と。

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2008年3月 9日 (日)

画面を離れよ、紙に出よう。――情報カード今再び―― (5)

■アナログな時間を取り戻すために

 最初にも述べたように、私がカードシステムを復活させたいと思った動機の一つは、パソコンの前で漫然と空費する時間を減らしたいということであった。実際にカードを使ってみて20日ほどになるが、携帯メモでアイデアを捕まえてカードに定着させる作業が楽しくなってくると、作業を快適にするために道具を調えて、机周りをきれいにしようという意欲も出てくる。梅棹式の知的生産術を几帳面にやっていた頃の感覚が戻ってくるような感じといったところだろうか。そうすると仕事自体への意欲も出てきて、仕事や生活の密度が濃くなってきたように思う。テクノ依存症に悩む方には、ぜひ今一度「紙」に戻ってみることをお勧めしたい。

 パソコンを離れてカードに向かうための、ちょっとした工夫をここで紹介したい。

その1 パソコンを立ち上げる前にカードに向かう

 仕事場に着いたら、パソコンを立ち上げる前にカードに向かい、 携帯メモの内容を転記する。転記しているうちにさらに新たなアイデアがどんどん浮かんできたらしめたものである。パソコンを立ち上げた後ではなかなかこうはいかない。これをやってみてわかったのは、パソコンの動作音がいかに知的作業への集中を妨げていたかということである。読書をする時もパソコンの電源を落としてしまった方がよいかも知れない。

その2 「本日の予定」をいの一番にカードに書き出す

 「超」整理手帳などを見ながら、その日にやっておきたい予定をカードに書き出し、パソコンのそばの目につく所に掲示しておく。走り書きではなく、きちんとしたカードでやるべき仕事が目の前に掲示されていると、自分にプレッシャーをかける効果は意外に大きい(そのうち慣れるかも知れないが)。やり終えた作業にはチェックを入れ、やり残した作業には△印をつけておく。書き終わったカードは他のカードと一緒に時系列で収納しておく。

その3 パソコンを離れたすきにアナログ作業

 パソコンを立ち上げた後では、カード書きなどのアナログなデスクワークは、トイレに立ったり、食事をしたり、来客の応対をしたり等でパソコンの前を離れた間に取りかかってしまうのがよい。それに慣れてきたら、メモっておきたいアイデアが浮かんだときに、すぐさまパソコンの前を離れてカードに向かうという体の動きも、自然にできるようになってくるであろう。

■カードは作業着手への抵抗を軽減する道具

 野口悠紀雄氏は「仕事の全行程の中で一番難しいのは、『始める』ことだ」(『「超」手帳法』pp.70)と言う。一旦始めてしまえば、後はどんどん作業を進められるが、最初に始める時にはどうにも手がつかないことが多いというのである。そこで野口氏は電車の中などのいつもと違う場所で、とりあえず最初のところだけ手をつけてしまい、後は仕事場で作業を続けるという方法を提案している。

 ところがパソコンという道具は、いざ作業にかかろうとすると、電源を入れてソフトを起動する間にどうしてもワンクッション置くことになってしまい、他のことを先にやってしまって本来の仕事は結局手につかないまま、ということが多々ある。つまり「着手抵抗」が非常に大きい道具なのである。

 その点カードは思い立ったらいつでもすぐ書けるのが最大の利点であり、 「着手抵抗の軽減」という点では極めて効果的な道具といえる。野口氏も紙の「抵抗の少なさ」はもちろん認めていて、アイデア捕捉にメモを取ることを勧めているが、それ以後の作業は一切パソコンでやってしまった方がよいとしている(『「超」整理法』 pp.194、『「超」手帳法』pp.131)。知的生産はカードでやるよりも、パソコン上でやる方が効率がよいからというのがその理由であり、私もつい最近までそう思っていたのであるが、少なくとも文学研究のような分野では、アナログ作業の最たるものである読書が重要なウェイトを占めるのであり、カードによるアナログ的知的生産も、決して有効性を失ってはいない。それなら「着手抵抗の軽減」に絶大な効果のあるカードを最大限に生かすことを考えた方がよいのであって、着手したテーマに関するカードがある程度たまって、 作業への抵抗がなくなってきたら、そこで初めてパソコンに移って文章に仕上げるのが、紙と電子データを有効に結びつける方法ではないかと思う。

■いつでもやめられるのもカードの利点

 それにカードはもし書いてみて効果がなさそうだとわかったら、休止するのも廃棄するのもさほどの抵抗にはならない。カードシステムは電子機器やソフトウェアに比べればはるかに安価で、捨てたければ可燃ゴミや故紙で気軽に出せるのだから。気軽にやめられるということは、即ち気軽に始められるということでもある。

 そういう意味でも、初めてカードシステムに取り組む場合は、最初から高価な道具をそろえずに、 身近なものや廃物を利用してやってみるのがよいと思う。道具を工夫すること自体が楽しみになるし(しばらくはそれに時間を取られっぱなしになるという副作用もあるが)、自分で作った道具には愛着もわくから、長く続けるための原動力にもなるであろう。

■おわりに

 これまで紹介してきたカードシステムは、あくまで私の仕事や環境にカスタマイズされたものである。本家PoICのHPや、本文中に引用した文献などを参考にしながら、自分なりのシステムを考えていただければと思う。私自身もカードを復活させてからまだ日が浅いことでもあるから、今後もいろいろ改良を加えていくかも知れないし、あるいは「やっぱりやーめた」となってしまう可能性もないとはいえない。

 本稿はカード復活後の成果第1号であるが、400字詰め原稿用紙にして36枚の分量がある。そのもとになったカードは26枚、それを頼りに文章に仕上げるのには2日しかかかっていない(カードを取った日付には当然もっと幅があるけれども)。これほどの量の文を一気呵成に書き上げられるとは予想もしていなかったし、もちろん初めての経験である。一からパソコンに向かって書き始めていたら、こうはいかなかったに違いない。

 学術論文ならこう簡単にはいかないだろうが、論文にするのに必要なカード枚数の目安や、それを組み立てて文章に仕上げるノウハウは得られたわけだから、それだけでも十分な成果はあったといえるだろう。

 「パソコンを前にしてもどうも仕事がはかどらない」という研究者、あるいはクリエイティブな職業の方々に、本稿が少しでも役立つことがあればと切に願う。(了)

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画面を離れよ、紙に出よう。――情報カード今再び―― (4)

■携帯メモ

 知的生産の技法は数あれど、それを継続する上で最大のネックとなるのは、アイデアやひらめきの捕捉にあるといえよう。知的生産の技法を説く本は、ほとんどメモ取りをこまめに実行することを説いている。梅棹忠夫氏は常時カードを携帯して、メモ取りもカードでやってしまうし(『知的生産の技術』pp.53)、野口悠紀雄氏は家中に反故紙の束を置いておいて、どこでもメモが取れる状態にしているという(『「超」整理法』pp.196)。ところがいざこれを実行しようとするとなかなか難しいのである。

 理由の一つとして、自分に合ったうまいメモ用具がなかなか見つからないことが挙げられる。携帯に便利で、どこで取り出しても苦にならず、書いた後でカードなりパソコンなりに内容を移し替えやすいものが理想だが、そのようなものがなかなか見つからず、試行錯誤を繰り返す羽目になる。

 そしてもう一つの理由は、メモを取る動機付けである。普段クリエイティブな仕事をしない人が、「なんか役に立ちそう」といった気持ちでいきなりメモ取りを始めても、なかなかうまくいかないであろう。「こんなことをして何にどう使えるのか」ということが自分の中でイメージされていないからである。もしこれまでに多くのアイデアやひらめきをみすみす逃がして、悔しい思いをした経験があるなら、その悔しさがメモ取りを続ける原動力になると思う。

 PoICでもそのあたりの事情への配慮はちゃんとされていて、カードは基本的に机の上で書くこととして、それ以外の場所で浮かんだアイデアを捕捉するために、野帳を持ち歩くことを勧めている。野帳はフィールドワークをする研究者や学生にとっては必須の道具で、硬い紙の表紙がついた、ポケットサイズの手帳である。表紙が硬いから野外で立って書くのに都合がよいし、実売120~140円と安価なのもありがたく、研究者以外の人にも携帯メモとして愛用する人が多い。

 私も学生の頃には、旅行に出るときには必ず野帳を持ち歩いて、旅程やら使った旅費やら、車窓から目についた風景などを克明に記録していたものである。おかげで列車に乗り合わせた年輩の乗客から、俳句の吟行と間違えられたこともある。しかし1995年頃から「超」整理手帳を使うようになると、野帳を持ち歩くこともなくなり、そして旅行の記録をつけることもなくなってしまった。今思えば惜しいことをしたものである。

 野帳の使い勝手の良さは捨てがたいものがあり、今回もカードとともにまた使ってみることも考えたが、これにはネックがあった。背広のポケットならまだしも、ワイシャツのポケットに入れるにはやや大きすぎるし、重すぎることである。

 私は夏場は基本的に上着を着ない。環境省が大々的に音頭を取るずっと前からクールビズをやっていたわけだが、そうするとポケットが少なくなるのが問題になる。しかもワイシャツの胸ポケットに物を入れると、肩が凝ってしまう。だから定期入れはズボンの前ポケットに入れている。見栄えは少々悪くなるが致し方ない。野帳もワイシャツのポケットに入れようものなら、確実に肩が凝って仕事に障るのである。

 そういう事情があるので、私にとっての携帯メモの条件は、

1.軽量
2.胸ポケットに収まる
3.筆記具を同時に携帯できる

ということになる。十年来愛用している「超」整理手帳は、スケジュールノートやA4プリントアウトのホルダーとしては非常に具合が良く、手放せないものだが、携帯メモとして使うには大きすぎるし重すぎる。何か思いついたらいちいちカバンから取り出して開くというのは、メモ取りという目的にはふさわしくないのである。

 「超」整理手帳もこのような声に応えて、最近ではA7判の「アイデアメモ」 を付属させるようになっている。これは薄型で軽量の、方眼が印刷されたメモ帳で、普段は「超」整理手帳に入れておき、必要に応じて手帳から取り出して別に持ち歩くというものである。これならワイシャツのポケットに入れてもあまり気にならないので、条件1.と2.は十分満たしているが、実はまだ問題がある。

 まず一つには「超」整理手帳本体からの出し入れが意外に面倒で、なかなか習慣づけられないこと、二つには表紙が軟らかいので立ったままで書くのに不便であること、三つには筆記具と一緒に持ち歩きにくいことである。

 この欠点を克服して利点を生かすには、軽くて機能的なカバーをつけることが考えられる。「超」整理手帳関連用品を売っているサイト「ノグラボストア」(リニューアルのため3月末で閉店)では、一流メーカーの革製A7カバーがいくつも出ているが、さすがに高価で手が出にくい。

 そこで職場で配布された手帳のカバーや、コレクトなどから出ている5×3カードホルダーを流用することも考えたが、幸い古くなった「超」整理手帳カバーを取ってあったので、これを改造することに落ち着いた。改造といっても大げさなことではなく、5×3カードがはさめる大きさになるよう上部を切断し、そうすると上辺のポケットの口が開いてしまうので、ビニールテープで止めただけである。とりあえずこれにA7メモと手帳用シャープペンシルをはさんで使ってみて、具合が良ければ本格的なカバーの購入も考えることにした。

 今の季節はコートを着るから、コートのポケットに入れて持ち歩くことにしたが、どこでもさっと取り出せて書けるというのはやはりすばらしい。急ごしらえのカバーとはいえ、使い勝手は意外に悪くないので、当面はこれでいろいろ試してみるのが良さそうである。A7ちょうどにせずに5×3サイズにしておけば、 余った部分をいろいろ活用することも考えられる。たとえば小型のUSBメモリーをマジックテープで貼り付けておくという工夫もあるだろう。気軽に細工ができるのが廃物利用のいいところである。
 (メモと一緒に持ち歩くなら、USBメモリーよりもSDカードやCFの方が薄くて具合がよいが、マジックテープを貼るとカードリーダーのスロットに入らなくなってしまうから、ちょうどおさまる大きさのポケットを工夫して作ってやる必要がある。)

 A7メモは「必要な時に手帳本体から切り離す」というのが本来のコンセプトであるが(『「超」手帳法』pp.136)、発想を逆転させて「必要な時だけ手帳本体に収納する」 ことにした方がよさそうである。会議などでは日程確認の必要から「超」整理手帳を必ず持参するので、その時にA7メモもカバーを外して、手帳にはさんでしまえば、どちらに書くか迷わなくて済む。

 A7メモの成功に気をよくして、家の寝室にもロディアNo.11のメモ帳を置いてみたら、これも結果は上々であった。書いたメモは出勤する時にちぎってA7カバーにはさんでおき、職場に着いたらA7メモに書いたメモと一緒にカードに転記するようにしている。転記が終わったメモにはチェックを入れておき、不要になったメモの紙は裏側を再利用すればよい。これまでみすみす逃してきたアイデアががっちり捕捉できるようになってくると、ますますメモ書きが面白くなってくる。 (つづく)

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画面を離れよ、紙に出よう。――情報カード今再び―― (3)

■カードと筆記具

 PoICに高価な道具は必要ない。 極端な話、紙とペンと箱さえあればすぐにでも始められる。しかし使い勝手の悪すぎる道具だと、カードを書くのがだんだん億劫になってくる。それでいくらもしないうちにやめてしまうのでは面白くない。

 そこで最も基本的な道具であるカードと筆記具は、使い勝手のよいものを慎重に選びたい。しかしこれも万人にお勧めできるわけではなく、最終的には自分に合ったものを見つけ出すしかないのではあるが、参考までに私の使っているカードと筆記具を紹介したい。

カード
 まずカードは既に述べたとおりB6判の「京大型」である。京大型カードはコレクトライフコクヨの3社から発売されているが、それぞれ罫線や穴の有無によっていくつかの種類がある。私が現在使っているのは大学生協のキャンパスカード(厚口)であるが、これはコクヨの「シカ-13」(8.5ミリ罫)とほぼ同等品で、しかもコクヨよりずっと安い。表は青色の8ミリ罫、裏は5ミリ方眼である。どちらの面を使うかは好み次第だが、両面同時に使うのはやめた方がよいであろう。また左端に二つ穴があり、これを綴じるためのバインダーも各種ある。梅棹氏は「穴があるとカードの有効面積が減るし、書くときにもリングが邪魔になる」という理由で、穴を開けることを否定しているが(『知的生産の技術』pp.53)、私は講義や講演の記録を取るときなどは、穴あきカードをバインダーに綴じて持って行くのが便利だと思う。カードを次々とめくって書くには、バインダーの方が素早くめくれるし、手が滑ってバラバラに飛び散ったりする心配もないからである。それに穴のある部分はマージン罫になっていて、日付以外書き込まないことが多いから、実際には有効面積はさほど減らない。

 8.5ミリ罫では幅が狭すぎるという人は、ライフの京大型カードなら9.5ミリ罫である。ライフのものは梅棹氏オリジナルの京大型カードに最も近い設計のようで、穴も開いておらず、裏面には何も印刷されていない。インクの吸い込み具合は生協のものより若干良いように思う。これ以外のものは使ったことがないので、評価はしかねるが、最初はいろいろ試してみて、気に入ったものが見つかってから大量に買い込むのが無難であろう。

筆記具
 次に筆記具であるが、私は万年筆党である。筆圧をかけなくても書けるから、大量の書き物をしても疲れないし、書いた後のインクの微妙な濃淡やにじみは捨てがたい魅力がある。

 院生の頃にカード書きに使っていたのは、ロットリング社の「デザインペン」で、ペン先はFである。本来はその名の通りイラストやカリグラフィーに用いるための、つけペンのような長い柄を持つ万年筆で、この柄の中には予備のインクカートリッジを入れておけるようになっている。これは大学生協で見かけて、それほど高くもなかったので何となく買ったものであるが、しばらく使っているとすこぶる書き味がよくなってきて、お気に入りの一品となった。これもカードを書かなくなってからお蔵入りになっていたが、今回カードを復活させるに当たって、ペン先を流水で洗ってから一晩ぬるま湯につけておいたら、見事よみがえった。今は研究室で使っているが、自宅用にももう一本ほしくなり、調べてみたら「アートペン」と名を変えてまだ売られていたので、早速注文して手に入れた。おろし立てだと書き味がまだかたい感じがするが、そのうち程よくすり減って、書き味も良くなることであろう。カードはもともと罫の間隔が広いから、ペン先の太さはFかMあたりがちょうど良いと思う。

 万年筆を使うにはインクが必要である。ロットリングの万年筆には専用のインクカートリッジもあるが、「デザインペン」を使っていた頃には、モンブランのインクカートリッジを入れていた。こちらの方が専用インクより安いし、紙へのしみこみが早いので、カードを次々と書いて重ねていくには具合がよい。今回買った「アートペン」には専用カートリッジが5本おまけでついてきたので、それを入れてみたが、インクの乾きが非常に遅く、吸い取り紙がないと使いにくい。次に入れるインクはモンブランにした方が良さそうだ。本格派の方は専用のコンバーターもあるので、瓶入りインクを使うこともできる。

 なお「アートペン」を買うと、金属製のペンケースがついてくるので、万年筆のほか本に傍線を引くダーマトグラフなどを一緒に入れて持ち歩くのに便利である。

 ところで地元の文具店でも大学生協でも、この頃モンブランのインクカートリッジが店頭に出なくなった。並んでいるのは国内メーカーのものばかりである。不景気に加えてワープロの普及で、舶来万年筆を使う人も少なくなったのであろうか。(つづく)

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