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2005年6月

2005年6月16日 (木)

チンゲンサイと呼ぶな?!

 先日の「日中の人名と現地音主義」の話とも関連するが、中国産のもので日本に入ってきたものの名前には、変な具合になまっているものが少なくない。中華料理の名前でも、「チャーハン」は正しくは「炒飯 chăofàn(チャオファン)」だし、「ザーサイ」は「榨菜 zhàcài(チャーツァイ)」である。餃子を「ギョーザ」と言うのは山東省の方言が日本語風になまったもので、共通語ではjiăozi(チャオズ)となる。但し中国で「餃子」と言えば普通は水餃子のことで、日本の中華料理屋でおなじみの焼き餃子は「鍋貼 guōtiē(クオティエ)」と言う。

 この辺りならまだ「なまり」の範囲内である。実際普通の中国人が日本語を聞いても相当なまって覚えるもので、10年ほど前に私が中国に留学していた頃も、中国人に食事に誘われると決まって「ミシミシに行こう」と言われて閉口したものである。どうやら抗日戦争を題材にしたテレビドラマで、日本兵が「めし、めし!」と叫んでいるのが、中国人には「ミシミシ」と聞えたものであるらしい。またある中国人は「テレビでやっていた日本のドラマで聞いた民謡はいい歌だった」と言って「ヤーレン、ツォーラン、ツォーラン」と歌ってくれた。日本語の「ソ」は中国人には「ツォ」に聞えてしまうのである。こうしたことを考えれば、日本語の中で中華料理の名前がなまってしまうのもやむを得ないことであろう。

 こういう話になると思い出すのは、学部生だった頃に中国語会話を教わった王鄂先生である。彼は「青梗菜」を「チンゲンサイ」と呼ぶのは気持ち悪いからやめてほしいと常々言っておられた。「青梗菜」は中国語ではqīnggěngcài(チンコンツァイ)と発音するのが正しい。だから「青梗菜」は「せいこうさい」と日本語で音読みするか、qīnggěngcài と中国語で正しく発音するかどちらかにしろ、というわけである。王先生は発音に関しては特にうるさく、私もずいぶん鍛えられたが、中国語を学ぶ人が正しい発音を覚えるのは当然としても、日本の全国民に qīnggěngcài を正しく発音させるのはもとより不可能である。特に geng は中国語を学んでいる学生でさえ半数以上は正しく発音できないくらい難しい代物である。そうかと言って「せいこうさい」と読んだのでは、「成功祭」や「性交際」という漢字の方が先に浮かぶ人がほとんどであろう。結局「チンゲンサイ」は中国人が「ソーラン」を「ツォーラン」と発音するのと同じなまりとして許容するしかないのであろうか。

 しかし「梗」を「ゲン」と読むのは、単なるなまりというよりは、むしろ geng というピンイン(中国式ローマ字)を読み誤った可能性も考えられる。そうだとしたらこれはなまりの範囲を超えている。とはいえ「チンゲンサイ」はもう日本語として定着してしまっているから、今さら修正するのは困難であろう。しかし中国語を使った商品名で、ピンインを読み誤ったとしか思えないものは問題である。例えば「燕龍茶」。日本では「ヤンロン茶」と読まれているが、ピンインで書けば yānlóngchá であり、「イェンロンチャー」となる。「ヤン」は明らかに yan を読み間違えたものである。また「煌」というペットボトル入りのお茶に「ファン」という振り仮名がついているが、これもいただけない。「煌」はhuáng(ホアン)であって、「ファン」と言ったら「飯(fàn)」と間違えられるのが関の山である。こういうものは見るたびに気持ち悪くなるので、私はこれらのお茶は絶対に買わないことにしている。

 「中国人を含む外国人の人名にはすべてローマ字表記をつければ、正しい読み方が一目瞭然だ」などと主張する人がいるが、上の例から考えれば、それが全くの幻想であることは明らかであろう。例えば江沢民にJiang Zeminとローマ字をつけたところで、これを「チアン・ツォーミン」と読める日本人がどれくらいいるだろうか。せいぜい「ジアング・ゼミン」などと誰にも理解不能な読み方をされるのがおちである。ローマ字で書きさえすれば万国共通に発音してもらえると思い込んでいるのがそもそもの間違いで、箱根のローマ字表記Hakoneでも、日本について知識のないアメリカ人は「ヘイコン」と発音する。世界的観光地の箱根でこうなのだから、後は推して知るべしである。中国風商品の開発に携わる人々にも、ローマ字ならちゃんと読めるという思い込みは捨てて、正しい発音を調べてから名づけてもらいたいものである。

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2005年6月 9日 (木)

日中の人名と「現地音主義」

 毎年この時期になるとしなければならない作業は、初級中国語のクラスの学生に自分の名前を中国語でどう発音するか調べさせて、それを名簿にまとめる作業である。中国語の授業では最初の1~2箇月で発音を集中して学ぶので、それが一通り終わったところで、自分の名前の発音を調べさせるのである。この作業は何年もやっていれば、日本人の人名に普通に使われる漢字の発音はほとんど覚えてしまうし、時には意外な発見もあったり(「夏」はxià(シア)だが、「榎」はxiàではなくjiă(チア)と読むなど)するので、なかなか楽しい作業である。

 中国語の中では、日本の人名や地名は漢字を中国語の音で読む。東京はDōngjīng(トンチン)、大阪はDàbăn(ターパン)と読まれ、小泉純一郎はXiăoquán Chúnyīláng(シャオチュエン・チュンイーラン)と読まれる。靖国神社もJìngguó Shénshè(チンクオ・シェンショオ)であって、「やすくにじんじゃ」と聞いてすぐに靖国神社だとわかる中国人は、日本語を学んだことのある人でない限りまずいない。したがって自分の名前の漢字を中国語でどう発音するか知っていないと、中国語での自己紹介も満足にできないことになるのである。

 そのかわりに、我々日本人は日本語の中では、中国人の人名は日本語の音読みで読んで構わない。毛沢東は「もうたくとう」でよいし、胡錦濤も「こきんとう」でよいのである。同じ漢字を使っているのだから、それぞれの国で都合のよい読み方で読もうという、互恵平等の原理が成り立っているのである。

 ところが最近、この互恵平等の原理がおかしくなってきた。「中国人の人名を日本語の音読みで読むのはおかしい。現地音で読むべきではないか」という意見が新聞の読者欄などで多く見られるようになり、朝日新聞はそれに押される形で、中国人の人名にカタカナで現地音の振り仮名をつけるようになった。地名でも最近は「現地音主義」が優勢になり、インドのボンベイがムンバイに、カルカッタがコルカタに改められたりしているから、中国人の人名の「現地音主義」も当然の流れのように思う人が多いであろう。

 しかしこと中国に関する限り、話はそう簡単ではない。日本語の中で中国の人名や地名を現地音で読むなら、中国語の中でも日本の人名や地名を「現地音」で読まなければ平等ではない。実際仕事などで中国へ渡った日本人が、自分の名前を中国語音でしか呼んでもらえないことにショックを受けて、「名前くらいちゃんと日本語で呼んでほしい」と文句を言うこともよくある。しかし中国人にとってそれは日本人が考えている以上に困難なことなのである。

 日本にはカナ文字があるから、現地音にある程度似せて表記することはさほど難しいことではない。しかし中国にはカナ文字に相当するものがないから、漢字で当て字をする以外に「現地音」を表記する方法はない。実際漢字圏以外の人名や地名を表すには、漢字の当て字を用いているのであって、例えばブッシュ米大統領は「布什(Bùshí=プーシー)」と書く。日本人の人名でも「現地音主義」に立つならこれと同じことをしなければならないので、私の名前なら「大野圭介(欧諾・給伊斯給)」と表記せざるを得ない。いちいちこんなことをしていては、日中双方の国民にとって不便極まりないであろう。「日本人は中国人の人名を現地音で読んでやるから、中国人も日本人の人名を現地音で読め」という主張は、日本にはカナ文字があって中国にはないという彼我の違いをわきまえない、非現実的な暴論である。

 一方で日本にやって来る中国人が、自分の名前を日本人にどう読ませるかも、かなりバラエティに富んできた。以前なら日本語の漢字音で読んでおけば問題なかったのであるが、最近では従来通り日本語音で読ませる人のほかに、中国語音に似せた振り仮名をつける人も増えてきている。そういう場合は本人の意思を尊重するのがよいだろうが、困るのは本人がいい加減な読み方をする場合である。この大学でも最近の中国人留学生は漢和辞典も引いたことがないのか、自分の名前にでたらめな日本語音で振り仮名をつけていたり、ひどい場合には日本語音と中国語音のチャンポンになっていたりする。こんな何語でもない気色悪い名前では、呼ばせられる方が気の毒というものである……はずだが、呼ばせられる側の日本人も多くは中国語を知らないし、日本語の漢字力も低くなっているから、中国人の主張する変てこな読み方を注意もせずにそのまま受け入れてしまうことが多い。昔から成り立っていた「互恵平等の原理」を捨てた挙句に、混乱が生じてしまったのである。

 「現地音主義」ならすべて丸く収まるというのは全くの幻想である。「現地音主義」は徹底させればきりがなくなってしまうので、例えばアメリカ人がイエス・キリストを「ジーザス・クライスト」と発音するのもけしからんということになるし、日本人がゴータマ・シッダルタを「お釈迦様」などと呼ぶのは罰当たりになってしまう。何よりも「現地音主義」を主張する人で、英米人が日本を「ジャパン」と呼び、フランス人が「ジャポン」と呼び、スペイン人が「ハポン」と呼ぶのを「けしからん。ニッポンと呼べ」と言う人にはついぞ会ったことがないのが不思議である。西洋人が自国に都合のよいように呼ぶのは許しておいて、時にはそれに迎合しさえするのに、中国人が自国に都合のよいように呼ぶのは許せないというのであれば、あまりにも帝国主義的な発想と言わざるを得ない。

 「現地音主義」にはもともと限界があるのであり、何から何まで現地音というのはどだい不可能かつ非現実的である。それならカナ文字のない中国人には「日本人の名前も中国語音で読ませてあげよう」というくらいの心の余裕を持ちたいものである。そのかわりに我々は中国人の人名を無理に中国語音に似せて読む必要もないのである。どのみち中国語はカタカナ発音では中国人には全く通じないのだから。

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2005年6月 5日 (日)

大道廃れて仁義あり

 最近の日中関係が日中国交回復以来最悪の状態になりつつあることはもはや誰しも異論のないところであろう。そのこと自体についての論評は既に議論百出しているから、ここで屋上屋を架す必要はなかろう。ただ小泉首相にはどうも「聞く耳を持たない」ことが男の美学だと勘違いしている節があるということだけは言っておきたい。彼は気に入らない意見に対してはすぐに「わからんねえ」と切り捨てるが、乱暴狼藉を非難されるとすぐに「カンケーねーよ」とうそぶくヤンキー(yankeeではない)の姿がそれにダブって見えてくるのは私だけであろうか。

 この一連の騒動で小泉首相の放った迷言といえば「『罪を憎んで人を憎まず』とは孔子の言葉でしょう?」だが、これについても中国古典文学の大家・一海知義氏がさっそく朝日新聞5月31日朝刊「私の視点」で批判を展開してくれている。マスコミで最初に批判する中国文学研究者は誰だろうかと思っていたら、飄々としてウィットに富んだ語り口で知られる一海氏がこのような挙に出たのには正直驚いたが、相当腹に据えかねてのことに違いない。

 一海氏はまず『論語』をはじめ信頼できる書物には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が出てこないことを挙げ(これが出てくるのは『孔叢子(くぞうし)』という書物で、孔子の子孫である前漢の孔鮒の撰と伝えるが、今日では後世の偽作とされている)、加えてこの言葉は罪を裁く側が使うものであって加害者が使うものではないこと(『孔叢子』には「古之聽訟者、惡其意不惡其人、求所以生之、不得其所以生乃刑之。(昔の訴訟を裁く者は、その犯意を憎んでその人自身を憎まず、彼を生かす理由を求めようとし、生かす理由がなければ初めて死刑にした)」とあることからも明らかである)を挙げた上で、政治家が引用する中国の古典は都合のいいところだけを本来の文脈を無視して引用する「断章取義」がほとんどであると非難している。

 一海氏の指摘する通り、政治家は中国の古典が大好きである。それに加えて最近は政治家の間で儒教ブームが起きているようでもある。「昨今の青少年の道徳の乱れは、戦後アメリカ文化を礼讚して儒教をないがしろにしてきたからだ。これから儒教を復活して青少年を鍛え直そう」といったことを大まじめに唱える人が増えてきている。しかしこういう御仁には恐らく想像もつかないことだろうが、本当に「儒教」の精神を行き渡らせたら、実は彼らにとって非常に困ったことになってしまうのである。

 政治家にとって儒教の何が魅力かと言えば、「忠君愛国」という徳目があることであろう。この徳目を振りかざせば、国の政策に対して異を唱える人はみな悪者にすることができる。ところが『論語』をよく見ると、「忠君愛国」という言葉は一度も出てこない。『論語』における「忠」とは、例えば学而篇の

 曾子曰、吾日三省吾身。為人謀而不忠乎、與朋友交而不信乎、傳不習乎。
 曾子が言った。「私は一日三度我が身を反省する。人のために何かしようと考えたとき真心を尽くしていないのではないか、友人と交際するのにうそをつかなかったか、自分のものになっていない学問を人に伝えなかったか。」

というように、「他人に対する真心」のことなのである。八佾篇には

 定公問、君使臣、臣事君、如之何。孔子對曰、君使臣以禮、臣事君以忠。
 魯の定公が「君主が臣下を使い、臣下が君主に仕えるにはどのようにすべきだろうか」と尋ねた。孔子は「君主が臣下を使うには、礼儀正しいやり方で行い、臣下が君主に仕えるには、真心をもって行うのです」と答えた。

とあるが、臣下が君主に忠誠であるのは、君主が臣下を礼遇するのとセットになっているのであり、決して一方的な滅私奉公の関係ではない。

 『孟子』でも無条件の忠君愛国などは決して唱えておらず、「まず政治家が道徳を守ってこそ、民にもそれを守らせて、うまく天下を治めることができる」という主張が随所に見られる。例えば滕文公篇上に

 人倫明於上、小民親於下。
 為政者が人倫を明らかにすれば、下々の庶民も感化されて親しみ合う。

とある通りである。他にも離婁篇下の

 君之視臣如土芥、則臣視君如寇讐。
 君主が臣下を土やごみのように扱えば、臣下も君主をかたきのように思う。

や、尽心篇下の

 民爲貴、社稷次之、君爲輕。
 国では民が最も貴重であり、土地穀物の神がその次であり、君主は最も軽い。

など、それこそ今の政治家には耳の痛い言葉が続々と出てくる。孟子が易姓革命、即ち天命を失った暗君を暴力で除く権利まで是認していたことに至っては、儒教大好きな政治家たちもほとんど知らないのではあるまいか。もし知っていたなら、「儒教の復活」など恐ろしくてゆめゆめ口にできないはずなのだが。

 『孟子』梁恵王篇上にはさらにこんなことも書かれている。

 無恆産而有恆心者、惟士為能。若民則無恆産、因無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不為已。及陷於罪、然後從而刑之。是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可為也。
 安定した仕事がなくて安定した道徳心を保ち続けるのは、学問を修めた士人だけができることである。もし庶民で安定した仕事がなければ、安定した道徳心もなくなってしまう。かりにも安定した道徳心がなくなれば、したい放題の悪いことを、何でもするようになる。そうして罪を犯して、それによって刑罰に処せられることになる。これは民をだまして網にかけるようなものだ。どうして仁徳ある人が君主の位にいながら、民を網にかけるようなまねができようか。

今どこかの国でこれと同じことが起こっているような気がするんですが……。儒教大好きな政治家の皆さん、いったいどうしてくれるんですか? 忠だ孝だと口にしながら、「恒産なくして恒心なし」という言葉は知らんというのでは、あまりにも手前勝手ではありませんか?

 結論。儒教儒教とやかましく言い立てる政治家は、実は儒教をわかっていない。あるいは都合のいいところだけつまみ食いしている。そう断定して差し支えないであろう。とはいえ政治家だけを悪者にすることも実はできないので、「忠君愛国」が儒教の一番の徳目であるかのように誤解されてしまったのは、江戸幕府が儒学を官学としたことに端を発する。易姓革命の思想が根付いていなかった日本では、儒学が日本の政治体制に合うように解釈し直され、明治政府にもそれは受け継がれて、「教育勅語」に見られるような忠君愛国・滅私奉公を柱とする思想に変質してしまったのである。「教育勅語」が儒教のエッセンスであるかのように思っている人は多いが、あれは少なくとも本来の儒教とはいえない。

 修身の教科書でしか儒教を知らない政治家が「儒教を学べ」というのなら大いに結構。ぜひ本物の儒教を学ぼう。学べば学ぶほど彼らの御都合主義が明らかになるのだから。そして政治家諸氏には『老子』のこの一節を謹呈しよう。

 大道廢、有仁義。智惠出、有大偽。六親不和、有孝慈。國家昏亂、有忠臣。
 大いなる道が衰えてから、仁義がうるさく唱えられるようになる。人の知恵が発達すると、礼や法律のような人為の極みが作られる。親子・兄弟・夫婦がうまく行かなくなれば、孝行慈愛がやかましく唱えられるようになる。国家の政治が混乱してから、忠臣がしきりにたたえられるようになる。

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