« 大道廃れて仁義あり | トップページ | チンゲンサイと呼ぶな?! »

2005年6月 9日 (木)

日中の人名と「現地音主義」

 毎年この時期になるとしなければならない作業は、初級中国語のクラスの学生に自分の名前を中国語でどう発音するか調べさせて、それを名簿にまとめる作業である。中国語の授業では最初の1~2箇月で発音を集中して学ぶので、それが一通り終わったところで、自分の名前の発音を調べさせるのである。この作業は何年もやっていれば、日本人の人名に普通に使われる漢字の発音はほとんど覚えてしまうし、時には意外な発見もあったり(「夏」はxià(シア)だが、「榎」はxiàではなくjiă(チア)と読むなど)するので、なかなか楽しい作業である。

 中国語の中では、日本の人名や地名は漢字を中国語の音で読む。東京はDōngjīng(トンチン)、大阪はDàbăn(ターパン)と読まれ、小泉純一郎はXiăoquán Chúnyīláng(シャオチュエン・チュンイーラン)と読まれる。靖国神社もJìngguó Shénshè(チンクオ・シェンショオ)であって、「やすくにじんじゃ」と聞いてすぐに靖国神社だとわかる中国人は、日本語を学んだことのある人でない限りまずいない。したがって自分の名前の漢字を中国語でどう発音するか知っていないと、中国語での自己紹介も満足にできないことになるのである。

 そのかわりに、我々日本人は日本語の中では、中国人の人名は日本語の音読みで読んで構わない。毛沢東は「もうたくとう」でよいし、胡錦濤も「こきんとう」でよいのである。同じ漢字を使っているのだから、それぞれの国で都合のよい読み方で読もうという、互恵平等の原理が成り立っているのである。

 ところが最近、この互恵平等の原理がおかしくなってきた。「中国人の人名を日本語の音読みで読むのはおかしい。現地音で読むべきではないか」という意見が新聞の読者欄などで多く見られるようになり、朝日新聞はそれに押される形で、中国人の人名にカタカナで現地音の振り仮名をつけるようになった。地名でも最近は「現地音主義」が優勢になり、インドのボンベイがムンバイに、カルカッタがコルカタに改められたりしているから、中国人の人名の「現地音主義」も当然の流れのように思う人が多いであろう。

 しかしこと中国に関する限り、話はそう簡単ではない。日本語の中で中国の人名や地名を現地音で読むなら、中国語の中でも日本の人名や地名を「現地音」で読まなければ平等ではない。実際仕事などで中国へ渡った日本人が、自分の名前を中国語音でしか呼んでもらえないことにショックを受けて、「名前くらいちゃんと日本語で呼んでほしい」と文句を言うこともよくある。しかし中国人にとってそれは日本人が考えている以上に困難なことなのである。

 日本にはカナ文字があるから、現地音にある程度似せて表記することはさほど難しいことではない。しかし中国にはカナ文字に相当するものがないから、漢字で当て字をする以外に「現地音」を表記する方法はない。実際漢字圏以外の人名や地名を表すには、漢字の当て字を用いているのであって、例えばブッシュ米大統領は「布什(Bùshí=プーシー)」と書く。日本人の人名でも「現地音主義」に立つならこれと同じことをしなければならないので、私の名前なら「大野圭介(欧諾・給伊斯給)」と表記せざるを得ない。いちいちこんなことをしていては、日中双方の国民にとって不便極まりないであろう。「日本人は中国人の人名を現地音で読んでやるから、中国人も日本人の人名を現地音で読め」という主張は、日本にはカナ文字があって中国にはないという彼我の違いをわきまえない、非現実的な暴論である。

 一方で日本にやって来る中国人が、自分の名前を日本人にどう読ませるかも、かなりバラエティに富んできた。以前なら日本語の漢字音で読んでおけば問題なかったのであるが、最近では従来通り日本語音で読ませる人のほかに、中国語音に似せた振り仮名をつける人も増えてきている。そういう場合は本人の意思を尊重するのがよいだろうが、困るのは本人がいい加減な読み方をする場合である。この大学でも最近の中国人留学生は漢和辞典も引いたことがないのか、自分の名前にでたらめな日本語音で振り仮名をつけていたり、ひどい場合には日本語音と中国語音のチャンポンになっていたりする。こんな何語でもない気色悪い名前では、呼ばせられる方が気の毒というものである……はずだが、呼ばせられる側の日本人も多くは中国語を知らないし、日本語の漢字力も低くなっているから、中国人の主張する変てこな読み方を注意もせずにそのまま受け入れてしまうことが多い。昔から成り立っていた「互恵平等の原理」を捨てた挙句に、混乱が生じてしまったのである。

 「現地音主義」ならすべて丸く収まるというのは全くの幻想である。「現地音主義」は徹底させればきりがなくなってしまうので、例えばアメリカ人がイエス・キリストを「ジーザス・クライスト」と発音するのもけしからんということになるし、日本人がゴータマ・シッダルタを「お釈迦様」などと呼ぶのは罰当たりになってしまう。何よりも「現地音主義」を主張する人で、英米人が日本を「ジャパン」と呼び、フランス人が「ジャポン」と呼び、スペイン人が「ハポン」と呼ぶのを「けしからん。ニッポンと呼べ」と言う人にはついぞ会ったことがないのが不思議である。西洋人が自国に都合のよいように呼ぶのは許しておいて、時にはそれに迎合しさえするのに、中国人が自国に都合のよいように呼ぶのは許せないというのであれば、あまりにも帝国主義的な発想と言わざるを得ない。

 「現地音主義」にはもともと限界があるのであり、何から何まで現地音というのはどだい不可能かつ非現実的である。それならカナ文字のない中国人には「日本人の名前も中国語音で読ませてあげよう」というくらいの心の余裕を持ちたいものである。そのかわりに我々は中国人の人名を無理に中国語音に似せて読む必要もないのである。どのみち中国語はカタカナ発音では中国人には全く通じないのだから。

|

« 大道廃れて仁義あり | トップページ | チンゲンサイと呼ぶな?! »