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2005年6月 5日 (日)

大道廃れて仁義あり

 最近の日中関係が日中国交回復以来最悪の状態になりつつあることはもはや誰しも異論のないところであろう。そのこと自体についての論評は既に議論百出しているから、ここで屋上屋を架す必要はなかろう。ただ小泉首相にはどうも「聞く耳を持たない」ことが男の美学だと勘違いしている節があるということだけは言っておきたい。彼は気に入らない意見に対してはすぐに「わからんねえ」と切り捨てるが、乱暴狼藉を非難されるとすぐに「カンケーねーよ」とうそぶくヤンキー(yankeeではない)の姿がそれにダブって見えてくるのは私だけであろうか。

 この一連の騒動で小泉首相の放った迷言といえば「『罪を憎んで人を憎まず』とは孔子の言葉でしょう?」だが、これについても中国古典文学の大家・一海知義氏がさっそく朝日新聞5月31日朝刊「私の視点」で批判を展開してくれている。マスコミで最初に批判する中国文学研究者は誰だろうかと思っていたら、飄々としてウィットに富んだ語り口で知られる一海氏がこのような挙に出たのには正直驚いたが、相当腹に据えかねてのことに違いない。

 一海氏はまず『論語』をはじめ信頼できる書物には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が出てこないことを挙げ(これが出てくるのは『孔叢子(くぞうし)』という書物で、孔子の子孫である前漢の孔鮒の撰と伝えるが、今日では後世の偽作とされている)、加えてこの言葉は罪を裁く側が使うものであって加害者が使うものではないこと(『孔叢子』には「古之聽訟者、惡其意不惡其人、求所以生之、不得其所以生乃刑之。(昔の訴訟を裁く者は、その犯意を憎んでその人自身を憎まず、彼を生かす理由を求めようとし、生かす理由がなければ初めて死刑にした)」とあることからも明らかである)を挙げた上で、政治家が引用する中国の古典は都合のいいところだけを本来の文脈を無視して引用する「断章取義」がほとんどであると非難している。

 一海氏の指摘する通り、政治家は中国の古典が大好きである。それに加えて最近は政治家の間で儒教ブームが起きているようでもある。「昨今の青少年の道徳の乱れは、戦後アメリカ文化を礼讚して儒教をないがしろにしてきたからだ。これから儒教を復活して青少年を鍛え直そう」といったことを大まじめに唱える人が増えてきている。しかしこういう御仁には恐らく想像もつかないことだろうが、本当に「儒教」の精神を行き渡らせたら、実は彼らにとって非常に困ったことになってしまうのである。

 政治家にとって儒教の何が魅力かと言えば、「忠君愛国」という徳目があることであろう。この徳目を振りかざせば、国の政策に対して異を唱える人はみな悪者にすることができる。ところが『論語』をよく見ると、「忠君愛国」という言葉は一度も出てこない。『論語』における「忠」とは、例えば学而篇の

 曾子曰、吾日三省吾身。為人謀而不忠乎、與朋友交而不信乎、傳不習乎。
 曾子が言った。「私は一日三度我が身を反省する。人のために何かしようと考えたとき真心を尽くしていないのではないか、友人と交際するのにうそをつかなかったか、自分のものになっていない学問を人に伝えなかったか。」

というように、「他人に対する真心」のことなのである。八佾篇には

 定公問、君使臣、臣事君、如之何。孔子對曰、君使臣以禮、臣事君以忠。
 魯の定公が「君主が臣下を使い、臣下が君主に仕えるにはどのようにすべきだろうか」と尋ねた。孔子は「君主が臣下を使うには、礼儀正しいやり方で行い、臣下が君主に仕えるには、真心をもって行うのです」と答えた。

とあるが、臣下が君主に忠誠であるのは、君主が臣下を礼遇するのとセットになっているのであり、決して一方的な滅私奉公の関係ではない。

 『孟子』でも無条件の忠君愛国などは決して唱えておらず、「まず政治家が道徳を守ってこそ、民にもそれを守らせて、うまく天下を治めることができる」という主張が随所に見られる。例えば滕文公篇上に

 人倫明於上、小民親於下。
 為政者が人倫を明らかにすれば、下々の庶民も感化されて親しみ合う。

とある通りである。他にも離婁篇下の

 君之視臣如土芥、則臣視君如寇讐。
 君主が臣下を土やごみのように扱えば、臣下も君主をかたきのように思う。

や、尽心篇下の

 民爲貴、社稷次之、君爲輕。
 国では民が最も貴重であり、土地穀物の神がその次であり、君主は最も軽い。

など、それこそ今の政治家には耳の痛い言葉が続々と出てくる。孟子が易姓革命、即ち天命を失った暗君を暴力で除く権利まで是認していたことに至っては、儒教大好きな政治家たちもほとんど知らないのではあるまいか。もし知っていたなら、「儒教の復活」など恐ろしくてゆめゆめ口にできないはずなのだが。

 『孟子』梁恵王篇上にはさらにこんなことも書かれている。

 無恆産而有恆心者、惟士為能。若民則無恆産、因無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不為已。及陷於罪、然後從而刑之。是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可為也。
 安定した仕事がなくて安定した道徳心を保ち続けるのは、学問を修めた士人だけができることである。もし庶民で安定した仕事がなければ、安定した道徳心もなくなってしまう。かりにも安定した道徳心がなくなれば、したい放題の悪いことを、何でもするようになる。そうして罪を犯して、それによって刑罰に処せられることになる。これは民をだまして網にかけるようなものだ。どうして仁徳ある人が君主の位にいながら、民を網にかけるようなまねができようか。

今どこかの国でこれと同じことが起こっているような気がするんですが……。儒教大好きな政治家の皆さん、いったいどうしてくれるんですか? 忠だ孝だと口にしながら、「恒産なくして恒心なし」という言葉は知らんというのでは、あまりにも手前勝手ではありませんか?

 結論。儒教儒教とやかましく言い立てる政治家は、実は儒教をわかっていない。あるいは都合のいいところだけつまみ食いしている。そう断定して差し支えないであろう。とはいえ政治家だけを悪者にすることも実はできないので、「忠君愛国」が儒教の一番の徳目であるかのように誤解されてしまったのは、江戸幕府が儒学を官学としたことに端を発する。易姓革命の思想が根付いていなかった日本では、儒学が日本の政治体制に合うように解釈し直され、明治政府にもそれは受け継がれて、「教育勅語」に見られるような忠君愛国・滅私奉公を柱とする思想に変質してしまったのである。「教育勅語」が儒教のエッセンスであるかのように思っている人は多いが、あれは少なくとも本来の儒教とはいえない。

 修身の教科書でしか儒教を知らない政治家が「儒教を学べ」というのなら大いに結構。ぜひ本物の儒教を学ぼう。学べば学ぶほど彼らの御都合主義が明らかになるのだから。そして政治家諸氏には『老子』のこの一節を謹呈しよう。

 大道廢、有仁義。智惠出、有大偽。六親不和、有孝慈。國家昏亂、有忠臣。
 大いなる道が衰えてから、仁義がうるさく唱えられるようになる。人の知恵が発達すると、礼や法律のような人為の極みが作られる。親子・兄弟・夫婦がうまく行かなくなれば、孝行慈愛がやかましく唱えられるようになる。国家の政治が混乱してから、忠臣がしきりにたたえられるようになる。

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