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2005年9月

2005年9月12日 (月)

「小姐」問題

 中国語の初級の教科書に必ず出てくる単語に「小姐(xiăojie,シャオチエ)」がある。英語のMissと同じ意味で、単独で使えば比較的若い女性を呼ぶ時の呼称になるし、比較的若い女性の名前の後につければ、「○○さん」という敬称になる。男性の場合は「先生(xiānsheng,シエンション)」という。

 数年前までは、中国語の授業の際には上の通り教えておけば何の問題もなかった。ところが近年の中国では、教科書通り若い女性を「小姐」と呼ぶと、いやな顔をされることが多くなったのである。

 その背景には、経済開放に伴う性産業の蔓延がある。中国でも売春はもちろん犯罪であるし、いわゆる風俗営業も認められていない。しかし実際には、非公認の風俗営業はもはや公然の秘密となっている。都市部なら表向きに理髪店やマッサージの看板を掲げていることが多いし、地方の国道沿いでは、食堂の玄関先で濃い化粧の女性たちが、通行する車に向かって手招きをしている光景をよく見かけるが、これは通称「来来飯店(láiláifàndiàn,ライライファンティエン)」と呼ばれる売春宿である。「小姐」はこうした「風俗」の女性を指す呼称になってしまったため、「堅気」の女性に嫌がられるようになったのである。

 ではかわりに何と呼べばいいのかという問題が生じるが、実は明快な解答はまだ存在しない。作家の莫邦富氏は「小妹(xiăomèi,シャオメイ)」という言い方を考えて、実際に使っていると著書に書いているが(『中国「新語」最前線』、新潮選書)、まだ普及する気配はなさそうである。

 とにかくこの問題は中国語を教えている者としては非常に気になる。幸い今年の夏に学会で西安へ行く機会があったので、人々が若い女性をどう呼んでいるかを特に注意して観察することにした。

 まずレストランやホテルの場合であるが、これは「服務員(fúwùyuán,フーウーユエン)」がすっかり定着しているようであった。「服務員」は「サービス業に携わる人」のことで、「小姐」が普及する90年代以前に使われていたものであるが、これが完全に復活したわけである。「服務員」は男女共に、年齢に関係なく使えるから、こちらの方が便利と言えば便利である。但し飛行機の女性客室乗務員は依然として「空中小姐(kōngzhōngxiăojie,コンチョンシャオチエ)」であり、実際に「小姐」と呼んでいる人もいた。

 サービス業の人なら「服務員」を使えばまず問題なさそうであるが、サービス業以外の人の場合はどうするか。例えば街頭で女性に道を尋ねるような場合はどう呼べばよいのであろうか。実は中国人もこの問題には以前から頭を悩ませているが、まだ解決策はないようである。では実際にどう呼んでいるかというと、地方によって様々である。今回の西安では、比較的年配の女性が若い女性を「大妹(dàmèi,ターメイ)」と呼んでいるのを目撃したし、数年前に東北の遼寧省撫順へ行った時には、「大姐(dàjiě,ターチエ)」が普通に使われていた。この呼び方は東北では以前からあるようで、男性は「大哥(dàgē,ターコー)」と呼ぶ。「哥」は兄の意味である。

 女性に対する呼び方は、恐らくこうした様々な呼び方から淘汰されていって、やがて定着するのであろうが、この「小姐」問題は今後もしばらくは目を離せない。

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ガキ大将と秀才のケンカ ~衆院選雑感~

 先の衆院選は予想以上の自民党圧勝で終わった。自民党の勝因や民主党の敗因は既にいろいろと言われているが、ここではそのこと自体にはあえて立ち入らない。私が言いたいのは、選挙戦での小泉氏と岡田氏の舌戦は、さながら「ガキ大将と秀才のケンカ」のような印象を受けたということである。

 大人の議論には様々なルールがある。例えば「感情的にならない」「議論に無関係な人身攻撃をしない」といった基本的な態度から、「相手の質問に対して論点をずらした答えをしない」「個別のことを取り上げて一般的なことであるかのようにすり替えない」などといった論理上のルールなどに至るまで、仮にも学問や文筆を業とする人なら当然身につけていなければならない常識である。何かと悪名高い「2ちゃんねる」でも、こうした議論のルールが「詭弁のガイドライン」としてまとめられている。いま抜粋すると、

 「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合、あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して否定論者が…

 ・事実に対して仮定を持ち出す
   「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
 ・ごくまれな反例をとりあげる
   「だが、時として尻尾が2本ある犬が生まれることもある」
 ・資料を示さず自論が支持されていると思わせる
   「世界では、犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」
 ・一見関係ありそうで関係ない話を始める
   「ところで、カモノハシが卵を産むのは知っているか?」
 ・陰謀であると力説する
   「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」
 ・自分の見解を述べずに人格批判をする
   「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
 ・レッテル貼りをする
   「犬が哺乳類だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」

等々といったことは「詭弁」であり、議論ではやってはならないというわけである。

 ところが子供のケンカはそうではない。子供が口ゲンカを始めたら、ルールなど何もあったものではない。筋が通っているかなど二の次三の次、詭弁、言い逃れ、悪罵のオンパレードであり、形勢不利な側がつい手を出して取っ組み合いに発展することも珍しくはない。

 故にガキ大将と秀才が口ゲンカをしたら、勝つのはたいていガキ大将である。ガキ大将の多くは腕っぷしが強いだけではなく、悪口の天才であり、詭弁も言い逃れもお手のものである。お上品な秀才がいくら筋を通しても、いつの間にか相手の詭弁につられて言葉に詰まったり、揚げ足を取られてしまったりする。子供のケンカは「声が大きい方が勝ち」「無理を通した方が勝ち」なのである。

 さてマドンナ刺客だホリエモンだと見世物を仕立てて、郵政郵政と叫び続けた小泉氏と、その「郵政一点張り」に揚げ足を取られてもなお一途に理に訴えようとした岡田氏と。結果は小泉氏の勝ちであった。が、私には議論に勝ったのではなく、子供のケンカに勝ったようにしか見えない。そして選挙民がまじめに議論を吟味するのではなく、子供のケンカを面白がってはやし立てながら投票したのだとすれば、何とも情けない話ではないか。

 (なお誤解のないように言っておくが、私は岡田氏を支持しているわけではないし、民主党支持を訴えているのでもない。あくまで印象を語っているだけである。)

 ところでガキ大将はいつまでも大将でいられるわけではない。大人になれば自然に卒業するものである。大人には大人のルールがあるのだから当然のことであろう。だとすると一国の宰相を選ぶ選挙で「ガキ大将」が勝利するとはいったいどういうことであろうか。

 ここまで考えて思い至るのは、子供の世界からガキ大将はとっくの昔に消えているということである。ガキ大将は他の子供たちにとっては粗暴な厄介者であると同時に、頼もしい存在でもあったし、羨望の的でもあった。あるいは子供のうちにそのような存在に出会えなかった人々が、今になって政治の世界に出現した「ガキ大将」に熱狂しているのではあるまいか(自民党に投票した人がみなそうだとは言わないが)。だとすれば臨床心理学や社会学の専門家が指摘する、社会全体の幼児化や日本人の知的衰弱とも軌を一にする現象と言えそうである。ぜひ今後の研究を待ちたいところである。

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