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2005年12月

2005年12月18日 (日)

中国学者がパワポを使わない理由

 Microsoft Powerpointといえば、今やプレゼンの道具になくてはならないものである。会社ばかりではなく、大学でももはやパワポは必需品といえる。大学運営に関する講演などでは必ずといっていいくらいパワポが使われるし、理系の国際学会でパワポの画面が発表者の後ろの大きなスクリーンに映し出される様子はニュースなどでもよく目にする。

 理系では「パワポが使えなければ研究者ではない」というのが常識のようである。ところがそんな常識の通用しない分野がある。私がかかわっているところの中国学がまさにそうであって、「パワポなんか使う奴は研究者ではない」という雰囲気が支配的なのである。

 中国文学や中国哲学の分野での最大規模の学会は日本中国学会であるが、十数回にわたって参加した大会で、私が知る限りではパワポによるプレゼンを行った発表は皆無である。ではどのような形でやっているのかというと、紙に印刷したレジュメを配布し、発表者は紙の原稿を見ながら口頭で話すという、昔ながらのスタイルが今も続いているのである。もしパワポを使って発表しようものなら、「アホか」と言われること必定である。学会でこの調子であるから、日頃の授業でパワポを使うこともまずないし、その使い方も知らない人の方が多いのではないかとさえ思う。老大家の先生なら「ぱわぽ? 何それ」という反応さえ返って来かねない。かく言う私のノートパソコンにも、パワポは一応入れてあるが、今もって出番はないし、研究室と自宅のデスクトップパソコンにはインストールすらしていない。

 このように聞くと、「文系の学者はパソコンも満足に使えないのか。こんな時代錯誤な連中は大学には必要ない。研究予算もどんどん削れ」といきまく理系の研究者もいるかもしれない。しかしそれは早合点である。

 まず「文系の学者はパソコンも使えない」というのは全くの誤解である。学会でパワポは使わなくても、そのレジュメはほぼ例外なくワープロ打ちしたものであり、すべて手書きのレジュメは今や滅多に見ることがなくなった。文系でも論文を書くのに原稿用紙のマス目を万年筆でシコシコ埋めていくような学者はもはや絶滅危惧種である。

 ワープロばかりではない。インターネットは文系でも今では必需品で、各種の電子文献が公開されているおかげで、基本的な文献なら必要な語句の検索も一瞬で行えるようになった。中国学ではパソコン上で中国語を扱わなければならないから、多言語使用についてそれなりの知識が必要であるし、パソコンについて全く無知では相当不利になることは疑いない。

 ではそれにもかかわらずどうしてパワポを使わないのか。理由は簡単で、「手間の割には必要性が薄い」からである。中国文学や中国哲学はまず「原典を読む」ことから始まる。難しい漢字の多い原典を示しながら発表するには、スクリーンに映し出して遠くから眺めるよりも、手元の紙で読ませる方が、聴衆にとっても発表者にとってもはるかに楽なのである。それに中国の古典にはJIS漢字に含まれない文字が山のように出てくる。最近はUnicodeの普及でかなり改善されたとはいえ、それでも表示できない文字もあるから、そのような場合は紙のレジュメでなければ対応できない。パワポが威力を発揮するのは、写真や図表をたくさん使う分野であり、同じ中国関係でも考古学などでは、発掘現場や出土物の写真をパワポで映し出すことが多いようである。要は適材適所なのであって、「パワポでなければ時代遅れ」などという決めつけはあまりにも短絡的な発想といえよう。

 「パワポでなければ時代遅れ」という考え方は、裏を返せば「パワポを使いさえすれば先進的」という発想になる。実は中国学の研究者でも時としてこれと同じような発想にとらわれてしまいがちであり、老大家の先生方も時折苦言を呈される。

「パソコンで瞬時にデータが得られるのは便利だが、その分じっくり読書して文献そのものの性格をつかむことをおろそかにしているのではないか」

全くもってその通りであり、私も拳々服膺させていただかねばなるまい。文献の一部だけを切り取ってきて、前後の文脈を無視して自分に都合のよいように解釈するのは「断章取義」と呼ばれる禁じ手であり、パソコンによる語句検索は、ややもすれば「断章取義」に陥って、その文献全体の性格から遊離した空論を構築してしまう危険性をはらんでいるのである。

 パソコンは検索したデータを目の前に表示するだけである。それがどのような意味を持つのかは、パソコンではなく人間が行う解釈である。いかにパソコンを駆使しようとも、人間が解釈を誤れば、とんでもない結論が出てきてしまうことになる。ところがここを勘違いして、「パソコンが出したデータに基づいているのだから自分の説は絶対に正しい」と思い込む人が、特に自称「研究家」にはよくいる。彼らはパソコンを使っていることで、何か偉大なことをやっているような気分になっているらしく、使った検索サイトなどをやたら自慢したがることが多い。しかしこういうのはまさに「道具自慢の仕事下手」の典型といえよう。最先端の文明の利器も、それを使うことが尊いのではなく、それを使って何をやるかが問題なのである。

 付け加えていえば、素人が思い付くようなパソコンの使い方は、プロならとっくの昔にやっている。中国学の分野でも、パソコンの進んだ使い方を追究している人々がこちらにおられる。はたから想像する以上に、中国学の電子化は進んでいるのである。

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2005年12月 4日 (日)

言うまいと思えど今日の寒さかな

 富山の冬は早い。11月半ばにはもうストーブを出さなければならないし、この時分に始まる植木の雪吊りや雪囲いも北陸の冬の風物詩である。黒部ダムで越冬する職員のための物資輸送が黒部峡谷鉄道で始まったという記事が地元紙に出ると、もう年の瀬は近い。

 寒い寒いと口に出しても詮ないこととはいえ、やっぱり口をついて出てくるのは「寒い」の一言――「言うまいと思えど今日の寒さかな」というこの作者不明の句は、まさに雪国の日常を見事に言い尽くしている(本当は「今日の暑さかな」だそうだが、暑さでも寒さでも通じるところがこの句の妙であろう)。

 ところでこの句には「英訳」がある。

You might or more head,today's some fish.

 英語を知っている人なら、これが真面目な訳ではないことはすぐにわかるであろう。なぜなら英語の文法にかなっていないからである。助動詞 might の後ろには動詞が来なければおかしいから、この文は英語としては成り立たない。この文は英語の発音を日本語にこじつけた語呂合わせだが、その中で "today's some fish" を「今日のサムさかな」と、意訳と語呂合わせをチャンポンにした無理な読み方をしているので、人々の笑いを誘うのである。

 このような「こじつけ英語」は他にも

Oh,my son,near her gay girl!(お前さんにゃ禿がある)

などが有名だが、「英語の文法では読めない」「無理な語呂合わせになっている」からこそ、判じ物として笑いのネタになるわけである。

 これは逆に言うと、外国語の訳で「文法にかなっていない」「訳し方がコロコロ変わるなど無理な読み方をしている」ものは、こうした判じ物と同じレベルの「こじつけ」に過ぎないということである。

 例えば

 汝何愚也、可笑哉!

という文があるとする。もしある人がこの文を見て、漢和辞典で「愚」を引いて、「自分を謙遜する」という意味を発見し、さらに「可」を引いて「よい」という意味を、「哉」を引いて「はじめる」という意味を発見したとしよう。そして

 この文は「あなたのナニはあたしのものよ、いいの持ってるわね、(うれしくて)笑い出しちゃう」という日本語を、漢字を使って書いたものだ。仮名で書けば卑猥すぎるから、漢文のようにカムフラージュしたのだ。

と主張したとしたらどうだろうか。

 うっかりすると「なるほど!」と膝を打つ人もいるかもしれない。しかし古典中国語(漢文)を知っている人なら、誰でも抱腹絶倒することであろう。

 なぜか。まず「愚」を「自分を謙遜する」意味で使うのは、自分の妻や息子を謙遜して言う「愚妻」「愚息」といった場合や、古典の注釈で「私が思うには……」と自分の意見を述べるときに使う「愚案(愚 案ずるに)……」のような場合だけであるし、「可」を「よい」の意味で使うのは、「よろしい」という許可の意味であって、good の意味では使わない。「哉」も「はじめる」意味は『尚書』や『詩経』などの非常に古い文献でしか使われない特殊な用法である。それに「愚」や「可」や「哉」を古典中国語の、それも普通には使われない意味まで持ち出して読もうとしながら、一方で「何」には現代日本語の俗語をあてはめて読むというのはどう考えても強引である。漢和辞典で「何」を引いても「逸物」という意味はもちろん出てこない。このように方法がコロコロ変わって首尾一貫しない読み方は、「古典文学は暗号である」などと主張する自称「研究家」がよくやることだが、学問の世界では「我田引水なこじつけ」と見なされるのである。

 古典中国語を知らない人には、この文は単なる漢字の羅列にしか見えないことであろう。しかし古典中国語を知っていれば、この文は「汝何ぞ愚かなる、笑うべきかな!(お前はなんと愚かなのだ、おかしいことよ)」という意味の古典中国語だとすぐにわかる。中国人でも古典を勉強した人なら、この文を見てすぐに意味がわかるし、「ルーホーユィイエ、コーシャオツァイ」と中国語で発音して聞かせても、ちゃんと意味を理解することであろう。これを「漢字でカムフラージュした日本語」だと主張しても、古典中国語を知らない人は騙せるかも知れないが、古典中国語を知っている人はまず騙せない。ちょうど "You make me happy." という文を「これは英語ではない。『よう、負けめえ、法被』という日本語のローマ字綴りだ」と言うようなもので、これに騙されるのは英語を全く知らない人だけである。

 「いったい何を遊んでいるのか」とお思いの読者もいるかもしれない。しかし自称「研究家」の中には、中国の史書であることは疑いようもない『魏志』倭人伝や、古典中国語の文法に一応従っている『古事記』などを「漢文ではない、和文だ」と主張する人々が実際にいるのである。そして彼らは「新しい読み方」を提示して、漢文で読もうとする学者を「固定観念に縛られている」と罵倒する。しかしこういう言説は、まさに古典中国語を知らないからこそ言える、「あなたのナニはあたしのものよ」と同じレベルの「芸術的なこじつけ」にすぎないし、それにはったと膝を打って感心するのも、まず間違いなく古典中国語を知らない人だけである。無知な人ほど「無知なるが故のデタラメ」(自称「研究家」は「固定観念に縛られない自由な発想」と格好良く言い換えているが)にあっさり騙されるのであり、だからこそ教養を身につけることをおろそかにしてはならないのである。ネットやマスコミでいい加減な言説があふれ返っている現代にあっては、学問は「騙されないためにする」ものだと言えよう。

 もう一度繰り返すと、外国語は判じ物ではない。外国語を読むときは文法に従って一貫した方法で読むことが肝要なのであって、文法を無視した語呂合わせや、方法がコロコロ変わる訳し方は、眉につばをつけた方が賢明である。もしそのような言説に出会ったら、迷わずこう唱えよう。

You might or more head,today's some fish!

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2005年12月 3日 (土)

研究と「研究ごっこ」の境

 『武蔵野文学』53号が手元に届いた。この雑誌は国文学の研究書を多く手がける武蔵野書院が発行しているもので、一応論文も載っているが新刊書の広告雑誌のようなものであるし、普段はざっと目を通しただけで捨ててしまうのだが(何せタダだから)、今号の論文には目を引かれたタイトルが一つあった。

 それは福嶋健伸氏の「『狂言のことば』と現代韓国語の意外な類似点」。トンデモウォッチングが半ば趣味になってしまっている私は、「こんなところにまでトンデモ論文?」と色めき立ってしまった。単に語感が似ているというだけで「○○語のルーツは××語」と決めつける「研究」は、いわゆるトンデモ「研究」(私は「研究ごっこ」と呼んでいる)の定番テーマだからである。しかも福嶋氏の肩書きを見ると「実践女子大学専任講師」とあって、立派なプロである。本当にそんな人がトンデモなことをやるのだろうか……と、半信半疑でこの論文を読んでみた。

 私は韓国語は少しかじったことがあるとはいえ、韓国語学を論じられるほど深く学んだわけではないし、日本語学についても素人であるから、この論文の結論自体の当否については論評する資格はない。しかし確実に言えるのは、これは「研究ごっこ」ではなく、まっとうな研究だということである。

 この論文は何について論じたものかというと、中世日本の狂言台本に初めて現れてくる「~タ」式の過去形が、しばしば「~テイル」という状態を表すことがあり、また動詞の基本形も「~テイル」という状態を表すことがあるが、現代の韓国語にもそれと同じ用法が見られることを指摘したものである。つまり語の機能の類似性を指摘しているのであって、「kennelは『犬寝る』という日本語から来たものだ」式の単純な語呂合わせとは全く似て非なるものである。またそうした現象が生じる要因についても、言語学上のこれまでの知見をきっちり引いた上で論証しているし、何より著者はあくまで類似性を指摘するだけであって、それ以上のことには先走っていない。もしこれが自称「研究家」だったら、きっと興奮して「現代韓国語のルーツは中世日本語だ!」と声高に唱えることであろう。

 つまりこの論文は結論の当否はともかく、「これまでの研究を踏まえた上で、根拠を挙げて論証する」「根拠から確実に言えることだけを慎重に言う」という学問のルールにきっちりのっとっているのであり、「研究ごっこ」とは一線を画する至極まっとうな研究なのである。

 一方でこれと対照的な「研究」が『学士会会報』2005年5号(No.854)に載っている。「『隋書俀国伝』から見える九州王朝」と題する論文である。著者のT氏は東大法学部出身で、専門の研究者ではなく、日本史や中国史を専門的に学んだ経験はないようで、アマチュアの考古学研究会に入って趣味で日本古代史を研究しているらしい。

 T氏の論文は古田武彦氏の唱える「九州王朝説」の正しさを傍証しようというのがその目的であり、奈良時代の僧行基が作ったと伝える「行基図」がもとになったとされる明の「混一疆理歴代国都之図」(1402)では九州が横長の形に描かれており、『隋書』倭国伝(『隋書』の原本は「俀」に作る)には「東西五月行、南北三月行」と、東西の方が所要時間が長く書かれることから、俀国とはまさに九州のことを言っているというのがその骨子である。

 しかしこの論文を一読すれば、T氏は古典中国語(漢文)や中国語学については全くの半可通であることがすぐにわかる。まず『隋書』倭国伝の「倭」の字が原本では「俀」となっているのにこだわって、その読み方を「『隋書』は唐代の成立だから、宋代以後の漢字音である漢音で「タイ」と読まずに、唐代以前の漢字音である呉音で「ツイ」と読むべきだ」と主張する。しかし唐以前の固有名詞で日本語で呉音で読まれているのは隋の煬帝(ようだい)や唐の学者孔穎達(くようだつ)などごく少数にすぎない。もしそのようにこだわるなら、孔子は「くじ」、孟子は「みょうじ」、秦の始皇帝は「しおうだい」と読まなければならないことになる。固有名詞を呉音で読むか漢音で読むかは、単なる習慣にすぎないのであり、こだわるのは意味のないことである。その上T氏は『隋書』の文の原文も書き下しも示さず、国訳本に全面的に拠っている。これは完全なルール違反で、中国の古典を引くなら、漢文で書かれた原文を示すのは東洋学の常識である。

 しかしこうしたことはまだ枝葉のことであり、「T氏はアマチュアなのだから仕方がないではないか」と擁護する向きもあろう。本来は「学問」を名乗る以上は、そんな言い訳は通らないのだが、そこは目をつぶって、一番肝心なことに触れよう。

 まず「東西五月行、南北三月行」が、横長の九州という「奈良時代の地理観」に合致しているという主張であるが、これは日本古代史のプロでなくても「何か変だ」と気づかなければならない。そもそも九州の大きさは長崎から大分まで300キロ足らず、門司から鹿児島まで400キロ足らずである。もし東西に5ヶ月、南北に3ヶ月もかかるのなら、一日わずか2~4キロしか進めないことになる。いくら何でも遅すぎるとは思わないのだろうか。

 さらに決定的な反証もある。T氏が根拠とした地図は、あくまで「行基図をもとにした地図」である。しかしもとの行基図を見ると、あに図らんや九州はちゃんと縦長で描かれているのである。行基図の写真は地図学の入門書には必ず載っているし、ネット上でも簡単に見つけられる(こちらこちらなど)。第一行基図は「行基が作った」と伝えられているだけであって、14世紀初頭までしかさかのぼれず、実際に「奈良時代の地理観」を反映しているかどうかは保証の限りではない。これでT氏の主張の根幹は完全に崩れたと言えよう。

 T氏は東大を出て会社の取締役になるくらいだから、決して無能な人ではあるまい。簡単な割り算ができないわけはなかろうし、「混一疆理歴代国都之図」が探し出せて行基図が探し出せないはずもなかろう。にもかかわらずどうしてこんな杜撰極まる「研究ごっこ」をやらかしてしまうのだろうか。

 その原因として挙げられるのは、「思い込み」に対する免疫が十分についていないことである。人は「強烈な第一印象」に非常に弱い。恐らくT氏は偶然「混一疆理歴代国都之図」を目にした瞬間、そのゆがんだ九州の形が「東西五月行、南北三月行」という記事とがっちり結びついてしまったのであろう。

 ここでまっとうな学者なら、それに対して都合の悪いことがないかを慎重に考える。「混一疆理歴代国都之図」は行基図そのものではないのだから、まず行基図のできるだけ古いものを見ることを考えるだろうし、九州の大きさと『隋書』に記される行程の所要時間に矛盾がないかも検討するであろう。その段階で、「混一疆理歴代国都之図」が九州王朝説の根拠になるという仮説は棄却されてしまうのである。

 しかしこうした訓練のできていない人は、「強烈な第一印象」で一度こうだと思い込んだら、そのままどんどん突っ走ってしまう。都合のよい根拠だけを探し、都合の悪い事例は「見れども見えず」になってしまう。こうして自称「研究家」はスキだらけの詰めが甘い「研究ごっこ」を「画期的な新説」と称して発表するのである。T氏と福嶋氏の態度を今一度よく比べてみてほしい。

 「ひらめき」から一歩踏みとどまって、あらゆる角度からそれを検証するだけの慎重さを持ち合わせているかどうか。それに必要な基礎知識や教養を持ち合せているかどうか。ここに研究と「研究ごっこ」の境がある。

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