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2005年12月 4日 (日)

言うまいと思えど今日の寒さかな

 富山の冬は早い。11月半ばにはもうストーブを出さなければならないし、この時分に始まる植木の雪吊りや雪囲いも北陸の冬の風物詩である。黒部ダムで越冬する職員のための物資輸送が黒部峡谷鉄道で始まったという記事が地元紙に出ると、もう年の瀬は近い。

 寒い寒いと口に出しても詮ないこととはいえ、やっぱり口をついて出てくるのは「寒い」の一言――「言うまいと思えど今日の寒さかな」というこの作者不明の句は、まさに雪国の日常を見事に言い尽くしている(本当は「今日の暑さかな」だそうだが、暑さでも寒さでも通じるところがこの句の妙であろう)。

 ところでこの句には「英訳」がある。

You might or more head,today's some fish.

 英語を知っている人なら、これが真面目な訳ではないことはすぐにわかるであろう。なぜなら英語の文法にかなっていないからである。助動詞 might の後ろには動詞が来なければおかしいから、この文は英語としては成り立たない。この文は英語の発音を日本語にこじつけた語呂合わせだが、その中で "today's some fish" を「今日のサムさかな」と、意訳と語呂合わせをチャンポンにした無理な読み方をしているので、人々の笑いを誘うのである。

 このような「こじつけ英語」は他にも

Oh,my son,near her gay girl!(お前さんにゃ禿がある)

などが有名だが、「英語の文法では読めない」「無理な語呂合わせになっている」からこそ、判じ物として笑いのネタになるわけである。

 これは逆に言うと、外国語の訳で「文法にかなっていない」「訳し方がコロコロ変わるなど無理な読み方をしている」ものは、こうした判じ物と同じレベルの「こじつけ」に過ぎないということである。

 例えば

 汝何愚也、可笑哉!

という文があるとする。もしある人がこの文を見て、漢和辞典で「愚」を引いて、「自分を謙遜する」という意味を発見し、さらに「可」を引いて「よい」という意味を、「哉」を引いて「はじめる」という意味を発見したとしよう。そして

 この文は「あなたのナニはあたしのものよ、いいの持ってるわね、(うれしくて)笑い出しちゃう」という日本語を、漢字を使って書いたものだ。仮名で書けば卑猥すぎるから、漢文のようにカムフラージュしたのだ。

と主張したとしたらどうだろうか。

 うっかりすると「なるほど!」と膝を打つ人もいるかもしれない。しかし古典中国語(漢文)を知っている人なら、誰でも抱腹絶倒することであろう。

 なぜか。まず「愚」を「自分を謙遜する」意味で使うのは、自分の妻や息子を謙遜して言う「愚妻」「愚息」といった場合や、古典の注釈で「私が思うには……」と自分の意見を述べるときに使う「愚案(愚 案ずるに)……」のような場合だけであるし、「可」を「よい」の意味で使うのは、「よろしい」という許可の意味であって、good の意味では使わない。「哉」も「はじめる」意味は『尚書』や『詩経』などの非常に古い文献でしか使われない特殊な用法である。それに「愚」や「可」や「哉」を古典中国語の、それも普通には使われない意味まで持ち出して読もうとしながら、一方で「何」には現代日本語の俗語をあてはめて読むというのはどう考えても強引である。漢和辞典で「何」を引いても「逸物」という意味はもちろん出てこない。このように方法がコロコロ変わって首尾一貫しない読み方は、「古典文学は暗号である」などと主張する自称「研究家」がよくやることだが、学問の世界では「我田引水なこじつけ」と見なされるのである。

 古典中国語を知らない人には、この文は単なる漢字の羅列にしか見えないことであろう。しかし古典中国語を知っていれば、この文は「汝何ぞ愚かなる、笑うべきかな!(お前はなんと愚かなのだ、おかしいことよ)」という意味の古典中国語だとすぐにわかる。中国人でも古典を勉強した人なら、この文を見てすぐに意味がわかるし、「ルーホーユィイエ、コーシャオツァイ」と中国語で発音して聞かせても、ちゃんと意味を理解することであろう。これを「漢字でカムフラージュした日本語」だと主張しても、古典中国語を知らない人は騙せるかも知れないが、古典中国語を知っている人はまず騙せない。ちょうど "You make me happy." という文を「これは英語ではない。『よう、負けめえ、法被』という日本語のローマ字綴りだ」と言うようなもので、これに騙されるのは英語を全く知らない人だけである。

 「いったい何を遊んでいるのか」とお思いの読者もいるかもしれない。しかし自称「研究家」の中には、中国の史書であることは疑いようもない『魏志』倭人伝や、古典中国語の文法に一応従っている『古事記』などを「漢文ではない、和文だ」と主張する人々が実際にいるのである。そして彼らは「新しい読み方」を提示して、漢文で読もうとする学者を「固定観念に縛られている」と罵倒する。しかしこういう言説は、まさに古典中国語を知らないからこそ言える、「あなたのナニはあたしのものよ」と同じレベルの「芸術的なこじつけ」にすぎないし、それにはったと膝を打って感心するのも、まず間違いなく古典中国語を知らない人だけである。無知な人ほど「無知なるが故のデタラメ」(自称「研究家」は「固定観念に縛られない自由な発想」と格好良く言い換えているが)にあっさり騙されるのであり、だからこそ教養を身につけることをおろそかにしてはならないのである。ネットやマスコミでいい加減な言説があふれ返っている現代にあっては、学問は「騙されないためにする」ものだと言えよう。

 もう一度繰り返すと、外国語は判じ物ではない。外国語を読むときは文法に従って一貫した方法で読むことが肝要なのであって、文法を無視した語呂合わせや、方法がコロコロ変わる訳し方は、眉につばをつけた方が賢明である。もしそのような言説に出会ったら、迷わずこう唱えよう。

You might or more head,today's some fish!

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