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2006年10月

2006年10月 1日 (日)

誇張とウソ

白髮三千丈  白髪 三千丈、
縁愁似箇長  愁いに縁(よ)って箇(かく)の似(ごと)く長し。
不知明鏡裏  知らず 明鏡の裏(うち)、
何處得秋霜  何れの処よりか秋霜を得たる。

――私の白髪は何と三千丈、愁いのためにこんなに長くなったのだ。光る鏡の中の我が姿は、いったいどこから秋の霜のような白髪を得たのであろうか。

 唐代のみならず中国を代表する詩人李白の「秋浦歌」である。詩の題は知らなくても、最初の一句は知らないという人の方が少ないであろう。自由奔放で奇抜な表現が持ち味の李白の詩の中でも、この詩は奇抜さの白眉として愛唱された名詩である。

 三千丈といえばおよそ9キロメートル、そんな長い髪を持った人が現実にあろうはずはない。この数字は言うまでもなく誇張である。しかし次の句を読めば、それが単なる誇張ではなく、積もり積もった愁いの比喩として用いられた表現であることがわかるのである。それは月並みな表現では決して言い表せないほど苦渋に満ちたものだったのであろう。それでいて決して暗さを感じさせないのがこうした比喩の巧みさである。

 しかし白髪と三千丈のあまりにも意表を突く取り合わせは、とりわけ日本人にとっては理解をはるかに超えたものだったようで、やがて「白髮三千丈」は大げさな物言いの代名詞となってしまった。今でも「中国は白髮三千丈の国なのだから、中国人の言うことはウソに決まっている」などと訳知り顔に言う人が後を絶たない。それも普通の庶民の居酒屋談義ならいざ知らず、知識人・文化人と目されている人も平気でこのようなことを著書に書いたりする。

 ところが「白髪三千丈」的物言いにかけては、実は日本人も決して人後に落ちないのである。例えば『万葉集』巻一の舒明天皇の長歌を見ると、

 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜[小可]國曽 蜻嶋 八間跡能國者
 やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにそ あきづしま やまとのくには

――大和には、多くの山々があるけれど、その中でも、天の香具山に登って立ち、国見をしてみたら、国土には煙がたちおこり、海原にはカモメが群れ飛んでいる。すばらしい国だ、蜻蛉嶋(あきつしま)大和の国は。

「国見」とは高所から国土を見て、豊作を祈る春の行事である。舒明天皇が登った香具山は、大和三山の一つであるが、実際には奈良盆地の中の大して高くもないこの山に登っても、生駒山脈に遮られて海原など見えないし、ましてカモメが群れ飛ぶ様子など見えるはずはない。こともあろうに天皇までがこんな大ウソを歌に詠んで「大和バンザイ!」と自己満足にひたっているのである。「それなら天皇の赤子たる日本人も大ウソつきに決まっている!」と中国人に言い返されたら、我々はいったいどうすればいいのであろうか。いかに「愛国」精神あふれる人でも、まさか『万葉集』のこの歌も「中国人が天皇をおとしめるためにでっち上げた偽物だ」などとは言えまい。「白髪三千丈」をあげつらえば、わが大和の国も「ウソのさきはふ国」になってしまうのであり、結局は天に唾することになるのである。

 私は別に天皇や日本をおとしめたり、中国を持ち上げたりしたいがためにこんな話を持ち出したのではない。私が言いたいのは「文学に誇張はあって当たり前」ということであり、こんなことで水掛け論をするのは、文化水準の低さを自らさらけ出すようなものだということである。

 もし中国の正史である『旧唐書』や『新唐書』の李白伝に「李白は白髪三千丈なり」と書かれていたのであれば、これは明らかにウソ偽りであり、批判されなければならない。なぜなら歴史書は真実を書くものであり、ありもしないことを意図的に書くことは許されないからである。もっとも意図しない誤りは史書の中でも決して珍しくはない。いい加減な先行資料を鵜呑みにしてしまったり、人名などの固有名詞の文字を誤ってしまったりなど、いろいろ理由はあるが、いずれにしても意図的につくウソと同列に論じるわけにはいかない。史書にも誤りがない保証はないからこそ、いくつもの史料を突き合わせて綿密な考証を行うことが、歴史研究には欠かせないのである。

 しかし「白髪三千丈」はである。詩は事実を伝えるためのものではないし、そもそも実際にあったことだけを忠実に詠んだのでは詩にはならない。その誇張の意味は最初に説明したとおり、あまりにも積もり積もってどうにもならない憂いを表現したものである。別に李白は人をだまして喜ぼうとしたわけではないし、読み手も事実でないことくらい先刻承知で、その誇張の奇抜さを楽しんだのである。それを「ウソだ、けしからん」などとなじるのは野暮この上ないことであり、文学を分かっていない無教養な人間のたわごとと見なされても仕方がないであろう。(なお三千という数になっているのはもう一つ、他の数を選んだのでは五言絶句の平仄の規則に合わないという理由もあるが、李白はそれだけでこの表現を選んだわけでは恐らくあるまい。)

 また舒明天皇の歌も、決して人をだますために海原を詠み込んだのではない。国見とは単に見える範囲を見渡すだけではなく、国土全体を見渡して支配するという呪術的行為なのであり、カモメの群れとぶ豊かなさまがうたわれるのは、陸と海の豊饒を対にして歌うことによって、天皇の支配する空間全体の豊饒をたたえ、その実現を祈るという意味に解することができる。だからこそ「大和の国は」という句でこの歌は結ばれるのである。したがって我々は「古代の天皇が大ウソつきでは他国に顔向けできない」などと心配する必要は全くないわけである。

 今古典の作品を例にしたが、もっと卑近な例も挙げられる。欧米の映画を見ると、歯が浮くようなくさいセリフがいくらでも出てくるではないか。例えば「カサブランカ」のハンフリー・ボガードの名セリフ

「昨日? そんな前のことは憶えていない。明日? そんな先のことはわからない」

は、日本人が聞けば誰しもキザだと思うことであろうし、「ウソこけ! お前は記憶喪失か!」と突っ込みたくもなるであろう。しかしだからといって、アメリカ人は皆キザだとかウソつきだとか主張する人がいたら、「アホか」と一笑に付されるだけであろう。「白髮三千丈」だから中国人がウソつきだというのも、それと同じくらい程度の低い言いぐさなのである。このようなことを言う人々は、「白髪三千丈」が詩であることを知らないか、忘れているか、そうでなければ意図的に無視していると考えざるを得ないのであり、誇張とウソの区別もつかないようでは、教養人・文化人とはとても呼ぶに値しないであろう。「もっと文学のセンスを磨け」と言うほかはない。

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