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2006年10月 1日 (日)

誇張とウソ

白髮三千丈  白髪 三千丈、
縁愁似箇長  愁いに縁(よ)って箇(かく)の似(ごと)く長し。
不知明鏡裏  知らず 明鏡の裏(うち)、
何處得秋霜  何れの処よりか秋霜を得たる。

――私の白髪は何と三千丈、愁いのためにこんなに長くなったのだ。光る鏡の中の我が姿は、いったいどこから秋の霜のような白髪を得たのであろうか。

 唐代のみならず中国を代表する詩人李白の「秋浦歌」である。詩の題は知らなくても、最初の一句は知らないという人の方が少ないであろう。自由奔放で奇抜な表現が持ち味の李白の詩の中でも、この詩は奇抜さの白眉として愛唱された名詩である。

 三千丈といえばおよそ9キロメートル、そんな長い髪を持った人が現実にあろうはずはない。この数字は言うまでもなく誇張である。しかし次の句を読めば、それが単なる誇張ではなく、積もり積もった愁いの比喩として用いられた表現であることがわかるのである。それは月並みな表現では決して言い表せないほど苦渋に満ちたものだったのであろう。それでいて決して暗さを感じさせないのがこうした比喩の巧みさである。

 しかし白髪と三千丈のあまりにも意表を突く取り合わせは、とりわけ日本人にとっては理解をはるかに超えたものだったようで、やがて「白髮三千丈」は大げさな物言いの代名詞となってしまった。今でも「中国は白髮三千丈の国なのだから、中国人の言うことはウソに決まっている」などと訳知り顔に言う人が後を絶たない。それも普通の庶民の居酒屋談義ならいざ知らず、知識人・文化人と目されている人も平気でこのようなことを著書に書いたりする。

 ところが「白髪三千丈」的物言いにかけては、実は日本人も決して人後に落ちないのである。例えば『万葉集』巻一の舒明天皇の長歌を見ると、

 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜[小可]國曽 蜻嶋 八間跡能國者
 やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにそ あきづしま やまとのくには

――大和には、多くの山々があるけれど、その中でも、天の香具山に登って立ち、国見をしてみたら、国土には煙がたちおこり、海原にはカモメが群れ飛んでいる。すばらしい国だ、蜻蛉嶋(あきつしま)大和の国は。

「国見」とは高所から国土を見て、豊作を祈る春の行事である。舒明天皇が登った香具山は、大和三山の一つであるが、実際には奈良盆地の中の大して高くもないこの山に登っても、生駒山脈に遮られて海原など見えないし、ましてカモメが群れ飛ぶ様子など見えるはずはない。こともあろうに天皇までがこんな大ウソを歌に詠んで「大和バンザイ!」と自己満足にひたっているのである。「それなら天皇の赤子たる日本人も大ウソつきに決まっている!」と中国人に言い返されたら、我々はいったいどうすればいいのであろうか。いかに「愛国」精神あふれる人でも、まさか『万葉集』のこの歌も「中国人が天皇をおとしめるためにでっち上げた偽物だ」などとは言えまい。「白髪三千丈」をあげつらえば、わが大和の国も「ウソのさきはふ国」になってしまうのであり、結局は天に唾することになるのである。

 私は別に天皇や日本をおとしめたり、中国を持ち上げたりしたいがためにこんな話を持ち出したのではない。私が言いたいのは「文学に誇張はあって当たり前」ということであり、こんなことで水掛け論をするのは、文化水準の低さを自らさらけ出すようなものだということである。

 もし中国の正史である『旧唐書』や『新唐書』の李白伝に「李白は白髪三千丈なり」と書かれていたのであれば、これは明らかにウソ偽りであり、批判されなければならない。なぜなら歴史書は真実を書くものであり、ありもしないことを意図的に書くことは許されないからである。もっとも意図しない誤りは史書の中でも決して珍しくはない。いい加減な先行資料を鵜呑みにしてしまったり、人名などの固有名詞の文字を誤ってしまったりなど、いろいろ理由はあるが、いずれにしても意図的につくウソと同列に論じるわけにはいかない。史書にも誤りがない保証はないからこそ、いくつもの史料を突き合わせて綿密な考証を行うことが、歴史研究には欠かせないのである。

 しかし「白髪三千丈」はである。詩は事実を伝えるためのものではないし、そもそも実際にあったことだけを忠実に詠んだのでは詩にはならない。その誇張の意味は最初に説明したとおり、あまりにも積もり積もってどうにもならない憂いを表現したものである。別に李白は人をだまして喜ぼうとしたわけではないし、読み手も事実でないことくらい先刻承知で、その誇張の奇抜さを楽しんだのである。それを「ウソだ、けしからん」などとなじるのは野暮この上ないことであり、文学を分かっていない無教養な人間のたわごとと見なされても仕方がないであろう。(なお三千という数になっているのはもう一つ、他の数を選んだのでは五言絶句の平仄の規則に合わないという理由もあるが、李白はそれだけでこの表現を選んだわけでは恐らくあるまい。)

 また舒明天皇の歌も、決して人をだますために海原を詠み込んだのではない。国見とは単に見える範囲を見渡すだけではなく、国土全体を見渡して支配するという呪術的行為なのであり、カモメの群れとぶ豊かなさまがうたわれるのは、陸と海の豊饒を対にして歌うことによって、天皇の支配する空間全体の豊饒をたたえ、その実現を祈るという意味に解することができる。だからこそ「大和の国は」という句でこの歌は結ばれるのである。したがって我々は「古代の天皇が大ウソつきでは他国に顔向けできない」などと心配する必要は全くないわけである。

 今古典の作品を例にしたが、もっと卑近な例も挙げられる。欧米の映画を見ると、歯が浮くようなくさいセリフがいくらでも出てくるではないか。例えば「カサブランカ」のハンフリー・ボガードの名セリフ

「昨日? そんな前のことは憶えていない。明日? そんな先のことはわからない」

は、日本人が聞けば誰しもキザだと思うことであろうし、「ウソこけ! お前は記憶喪失か!」と突っ込みたくもなるであろう。しかしだからといって、アメリカ人は皆キザだとかウソつきだとか主張する人がいたら、「アホか」と一笑に付されるだけであろう。「白髮三千丈」だから中国人がウソつきだというのも、それと同じくらい程度の低い言いぐさなのである。このようなことを言う人々は、「白髪三千丈」が詩であることを知らないか、忘れているか、そうでなければ意図的に無視していると考えざるを得ないのであり、誇張とウソの区別もつかないようでは、教養人・文化人とはとても呼ぶに値しないであろう。「もっと文学のセンスを磨け」と言うほかはない。

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短歌もいいですが 長歌もいいですね わたしなりに 長歌を研究し作歌ています よろ [続きを読む]

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» 2006.10.07 24 ムーンライト藤原京 [人生色々]
 さて風も強くなり、ライトアップが19時からということで2時間ほどあったので、夕食に行くことにした・・・  と、夕焼けが綺麗であったので・・・・  そして、夕食・・・・  で、19時に、出発した・・・・  満月か?  そして、ライトアップ・・・・  まずは香具山  そして耳成山  畝傍山は見えない・・・・  これが1... [続きを読む]

受信: 2006年10月22日 (日) 13時40分

コメント

始めまして、「誇張とウソ」を大変興味深く読みました。私は文学の門外漢ですが、「白髪三千丈」という古典名詩句の日本における偏差のひどい使い方にずっと強い好奇心を持ち、色色々調べて「白髪三千丈の真意」という一文を書き上げ、2004年5月 wikipediaに投稿した事があります。

その後二年余り 「白髪三千丈 wikipedia」の記事としてyahoo comやyahoo com などに掲載されましたが、最近、wikipedia 利用者により内容をかなり改竄されたが、いまでも、google com.で「白髪三千丈」を検索すると、「白髪三千丈 wikipedia」がまづ出てきて、その下に「利用者仁目 wikipedia」が続いて出ています。
利用者「仁目」というのが 私の筆名で、その記事が私の投稿原文です。

大野さんは専門が中国文学だから勿論の事、私は門外漢ながらも、お互い「漢文」独特の深みと言うか含みというものに限りない愛着を感じている点で、「誇張とウソ」を目にした時に、なにかしら「旧知」に邂逅したような感じがしました。

それで、厚かましく、大野さんにも私の駄文に目を通して貰い、叱正を頂きたいと思って、送信した次第です。

これをきっかけに、漢文と言うもの、乃至、中国と日本についていろいろと楽しく語り合えるようになればと思います。

投稿 仁目 | 2006年10月15日 (日) 03時57分

 コメントありがとうございます。
 中国への悪感情の高まり、文学離れといった、中国古典をめぐる環境の悪化の中で、なお深い関心を寄せられる方がおられることは心強い限りです。

 ただwikipediaへの書き込みを拝見しましたところ、まず気になったのは、やや感情を込めすぎた書き方である点です。単に作品を鑑賞して感想を述べるだけならそれでも結構ですが、wikipediaは事典であってエッセイ集ではないのですから、客観的事実だけを書くことに徹する必要があります。白髪三千丈の意味を誤解している人へ痛罵を投げつけたい気持ちは分かりますが、それは別の場ですべきことです。(私も当ブログではかなりきついことも言っていますが、学術論文ではこのような物言いは絶対にしません。「論文では書けないことを書く」のが当ブログのコンセプトです)

 加えて三千丈の解釈として挙げておられるいくつかの説も、他のwikipedia利用者に修正されたとおり、勇み足が目立つように見受けられます。

 まず「長」という字は「はえる」意味では上声、「ながい」意味では平声の発音ですが、この詩では平声の「霜」と押韻しますから、「はえる」意味では韻が合いません。しかも「三千丈」という長さを受けて「長」と言っていますし、その上「似箇」は「このように」という当時の口語で、ちょうど現代中国語の「这么」と同様に、後には形容詞が来ます。これらのことを考えれば、「似箇長」は「こんなに長い」と読むのが最も自然でしょう。

 「千家詩」の現代の学者の注に引かれているという「白髪を全部足せば三千丈」という説も、広く支持されているわけではありません。むしろ「即物的すぎる」と一笑に付す研究者の方が多いでしょう。

 また三千丈を「三千世界」と結びつけるのも強引ではないかと思われます。「三千」を三千世界の意味で使う用例は六朝期からありますが、それは他の言葉との組み合わせですぐにそうとわかるような形で用いられます。仏教哲学や寺院を歌ったわけではない「秋浦歌」で、唐突に三千世界の意味での「三千」が出てくることはまず考えられないでしょう。

 結局この三千丈は、通常の解釈のように「非常に多い数を表す概数」の意味で受け取るのが一番自然ですし、そう解しても特に不都合はないと思います。そうだとしても髪の長さとしては三千丈はあまりにも多すぎるので、奇抜と評されることになったわけです。

 仁目さんはよく勉強されているとは思いますが、まだ古典中国語の語彙や音韻、読み方の勘どころには十分習熟されていないように見受けられます。さらに多くの詩歌や名文を読めば、「勘どころ」もつかめてくることと思います。

投稿 朴斎 | 2006年10月18日 (水) 00時40分


【大野への返信】

Wikipedia は事典であってエッセイ集ではないという指摘は、本来あるべき姿で
あるという意味に於いては全くその通りだと思います。
しかし、実態は一寸違うようです。

【白髪三千丈 Wikipedia】 という記事が最初に見えたのは 200年9月19日で、


白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の「秋浦歌」の冒頭の一句である。
日本では中国人の誇張癖を象徴するものとしてしばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はしないようだ。

という具合に出ていました。

私がこの記事を見たのは 2004年の5月、つまり、記事掲載の十カ月後で、次の
三点に気が付きました。
(1) 杜甫は 李白 の間違い。
(2) 「秋浦歌」冒頭の一句は、「秋浦歌」第十五首冒頭の一句が正しい。
(3) 日本では誇張癖の象徴として使うが、中国ではそういう使い方はしないようだ、という指摘は的(まと)を得ている。

一方、Wikipedia の趣旨を見ると、

「百科事典とは、一般市民の啓蒙を目的とする。さまざまな分野の知識の概要を整理、記述して。誰でも容易に見られるようにまとめる」

となっており、この趣旨に基ずく「Wikipedia 百科事典」の記事にするなら、
上述の三点につき、(1) と (2) の是正、そして、 (3) の指摘に対し、「何故か?」
という説明を加えるべきだと思った。しかし、掲載後十カ月経っても、このような編集はずっとされないまま放置されていた。事典らしくないですね。

私は門外漢ながらも、「白髪三千丈」という言葉に興味を持ち、色々調べて、ある程度の知識を持っていたので、その記事を編集し、投稿したわけで、その記事が、所謂「百科事典」に該当するかどうか、自分には判断のしようがないし、「百科事典」が編集出来るという大それた考えも無かった。しかし、原出典に比べ、内容がかなり充実した点に於いて、読む人になにがしかの「知識」、あるいは「啓蒙」の場を提供する事が出来たという自負はありました。

大野さんが、Wikipedia のどの部分に目を通されたかよく分かりませんが、
「やや感情を込めすぎた書き方」とおいう指摘は若干心外でした。が、もともと物書きではないので、筆力の至らぬ所は多々あったと思います。

「非常に多い数を表す概数」が一番自然だという大野さんの結論は、私が拙文で、冗文
を厭わずに説明した趣旨と全く一致しており、それが「詩的表現」としての「白髪三千丈」の意味であるとの了解は、大野さんも私も同じです。私が「旧知に邂逅したような感じがした」と書いたのは、この意味に於いてです。

それであれば、「長」という字を「ふえた」「多い」に解釈した方が自然ではないでしようか (「はえる」ではなく) 。欧文社の『漢和辞典』や中国の『辞海』にこのような「長」の字義が出ていることから、このように解しても差し支えないのではと愚考します。

「千家詩」という古典の解釈が「即物的すぎる」と一笑に付す学者がいるそうですが、理解に苦しみます。
単純に「シラガが三千丈に伸びた」という解釈と、千家詩のように「シラガ
が増えた、一本一本継ぎ足すと、三千丈にもなるだろうか」という解釈、どちらが「即物的」かというと、後者の方だと思います。何故なら、即物的とは、「事物を実体に即して考えるさま」という広辞苑の解説に従うなら、不可能である前者の解釈より、可能である後者の解釈の方が「即物的」であるのは自明だと思い
ます。それが何故一笑に付されるのか、私には理解出来ないし、又、そのような評言を目にした事はない ( これは私の寡聞のせいでしようが) 。

日本に「仏教用語」という辞書があるように、仏教語が日常用語あるいは文学用語に転化した言葉が随所に見られます。例えば、《法華コム の説法 》は、「三千」について、次のように説明しています。

【仏様の教え/一念三千】

中国・隋代の天台智者大師智(538~597)が説いた一念三千もまた、
一見、そうした数字の組み合わせ遊びのように見える側面があります。五月十九日の十界互具、五月二十二日の十如是、そして一昨日の三世間。この三つの 概念が、一念三千の構成要素です。
十の状態のひとつひとつが更に十の状態を持っている(十界互具)
  10 X 10 =100(百界)    
その百界が全て十の側面(十如是)を持っている        
  100 X 10=1000(千如)    
その千如が三つの世界(三世間)に遍在している        
  1000 X 3=3000  

こうして導き出された三千という数字は、宇宙の--またミクロコスモスとしての「人間」の--全てを含むものと見なされます。その三千
が人の 一瞬の 心のうちに全て含まれている、それが一念三千の教えです。
三千という数字には、「白髪三千丈」という言葉があるように、非常に多い 数の比喩としても中国では用いられました。
以上、《法華コム の説法 》より一節引用。

これを下記の国語辞書 ( 大辞泉 ) の字解と照合してみる。
『千丈』ーー
一丈の千倍。また、非常に長いこと。
『 三千 』( さんぜん) ーー
1 千の三倍の数。
2 非常に数の多いことを表す語。

すると、俗に「シラガが非常に多く増えた」と言うところを李白は「白髪三千丈」という超俗的な筆法を駆使して表現したというのが納得出来るのではないでしようか。詩仙李白の真骨頂だと思います。
ですから、三千丈を「三千世界」と結びつけたのは、私の創作ではないのです。単なる知識の受け売りです。
隋唐の時代に仏教が中国で最も栄え、その後に、美女三千、三千寵愛、食客三千、飛流三千尺、白髪三千丈 などなどの数詞形容が続出した事と考え併せれば、「三千」と「三千世界」を切り離す訳にはいかないと思います。

大野さん、自己紹介が一寸遅れましたが、私は現役から退いた隠居者で、いまはもっぱら園芸、読書、ゴルフの晴耕雨読の日々を過ごしています。趣味の読書で得た知識で物を言うているので、これは門外漢の言い分に違いないが、私には「人を痛罵する」資格も趣味もなく、只「名詩句」を解し得ない人が多い事に驚くと共に痛惜の念から、日頃読書で得た知識を皆さんに取り次いだまでの事です。
よろしくご了承下さい。
また、懇切な叱正と励まし、大変ありがとうございました。



投稿 仁目 | 2006年10月20日 (金) 03時48分

追伸、 本日返信の冒頭に出ていた 「大野への返信」は「大野さんへの返信」の打ち間違いです。訂正します。

投稿 仁目 | 2006年10月20日 (金) 03時54分

仁目さん、こんばんは。

> (1) 杜甫は 李白 の間違い。
> (2) 「秋浦歌」冒頭の一句は、「秋浦歌」第十五首冒頭の一句が正しい。
> (3) 日本では誇張癖の象徴として使うが、中国ではそういう使い方はしないようだ、という指摘は的(まと)を得ている。

この三点について誤りを正し、意見を述べられたこと自体はもっともなことです。そのことを批判しているわけではありません。ただ(3)に対する意見は内容的にも問題なしとはしませんし、それ以前に通説を無視して自説のみをひたすら開陳しようとするのは、事典にはふさわしくない、公平を欠く態度であると思います。「感情的」と言って悪ければ、「自説への思い入れが強すぎる」と言う方がよいかもしれません。事典とはまず広く支持されている通説を紹介し、その上で異説があればそれも紹介するという、公平な視点で書くものです。(Wikipediaの記事にはそうでないものも散見されますが、「だから自分もやっていい」という理屈はもちろん成り立ちません。)

  > それであれば、「長」という字を「ふえた」「多い」に解釈した方が自然ではないでしようか (「はえる」ではなく) 。欧文社の『漢和辞典』や中国の『辞海』にこのような「長」の字義が出ていることから、このように解しても差し支えないのではと愚考します。

 初学者はしばしば「辞書に○○と書いてあるから」という言い方をしますが、単に語釈を当てはめるだけで「新解釈」をしようとするのは、辞書の誤った使い方です。「長」を「増える」「多い」の意味に使うのは、例えば『呂氏春秋』観世篇の「乱世之所以長也(乱世の長ずる所以なり)」のように、「(抽象的な)悪い事態がはびこる」という場合です。「白髪」のような具体的なものとの組み合わせとしては「多い」という解釈はあまりふさわしくないでしょう。言葉の意味は一語だけ取り出して考えるのではなく、他の言葉と組み合わせた用例で考えなければなりません。

  > 何故なら、即物的とは、「事物を実体に即して考えるさま」という広辞苑の解説に従うなら、不可能である前者の解釈より、可能である後者の解釈の方が「即物的」であるのは自明だと思い
> ます。

『広辞苑』第5版にはもう一つ「物質的なものを中心に考えるさま」という語釈もあります。私が「即物的」というのはこちらの意味の方で、詩の解釈が即物的だというのは「実際の物にこだわりすぎる」ということです。私が学生だった頃からごく当たり前に使われている用法ですし、「白髪を全部足したら三千丈」という解釈も、私がかつて出席した授業で先生が紹介すると、爆笑の渦が起こっていたものです。唐代の人が髪の毛の正確な本数を知っていたかどうかも疑問ですし、知っていたとしてもそんなことを考えながら詩を詠むかどうかはやはり疑問ですから。

 三千と三千世界の結びつきの根拠に隋の高僧智[豈頁]を挙げておられますが、実はそれよりもはるか以前から、三千という数は非常に多い数を表す概数として盛んに用いられています。例えば戦国時代の『荘子』秋水篇の「吾聞楚有神龜、死已三千歳矣(吾聞く、楚に神亀有り、死して已に三千歳ならんと)」や、同じく天下篇の「昔禹之湮洪水、決江河而通四夷九州也、名山三百、支川三千、小者無數。(昔 禹の洪水を湮(ふせ)ぎ、江河を決して四夷九州を通ずるや、名山は三百、支川は三千、小なる者は無数なり。)」など数え上げればきりがありません。昔からある概数表現を、仏教の側が借りて使うようになったと見るべきでしょう。

 そうなってくると、李白が「白髪三千丈」と歌ったとき、果たして三千世界を頭に置いていたのか、またその詩を読む側も誰もが三千世界を思い浮かべながら読んだのか、甚だ疑問です。少なくとも「絶対そうだ」とは断定できないでしょう。百歩譲って三千世界を思い浮かべてこの詩を読んだとしても、何か新味のある解釈ができるのでしょうか。余計に訳が分からなくなるだけのようにしか思えないのですが。(なお李白は神仙には深い関心を示していましたが、仏教に対してはそれほどでもなかったようです。仏教に傾倒したのは「詩仏」と呼ばれた王維の方です。)

 言葉の用例や文全体の文脈を吟味せずに、辞書の語釈だけを振りかざして「新説」を立てようとするのは、初学者の陥りがちな過ちで、そのようなやり方では「木を見て森を見ず」な解釈になってしまいます。学生の卒論なら確実に「指導」が入るでしょう。

 名詩を多くの人に味わってほしいというお気持ちには頭が下がりますが(その意図にいささか誤解があったことはお詫びいたします)、以上の理由から御説に賛同はいたしかねます。これ以上の主張はご自分の場所で存分にやっていただければと思います。

 なお私がやっているこちらのページもついでに御覧いただければ幸いです。
http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/chubun/ohno/jisho.htm
http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/chubun/ohno/dousureba.htm

投稿 朴斎 | 2006年10月23日 (月) 01時42分

朴斎雑志さん、はじめまして。

わたしのHPで「白髪三千丈」の表現を使った所、それに対する批判があり、その批判とともに朴斎雑志さんの記事を紹介している方がおられました。
昨日、その記事の改訂版をアップした際、
朴斎雑志さんのお名前とHPアドレスに言及しておりますので、お知らせいたします。
ご批判ご感想を頂戴できれば幸いです。


探究 三浦つとむ・滝村隆一に学ぶ
http://galo2.hp.infoseek.co.jp/nannkinn1.html

【随想 現実と論理 ―南京事件論争に寄せて】

投稿 佐佐木晃彦 | 2007年4月10日 (火) 16時38分

 佐佐木晃彦 様、はじめまして。わざわざお知らせ下さいましてありがとうございます。

 南京事件の記事を拝見いたしましたが、各派の言い分に対する冷徹な分析には感服いたしました。私も「なかった」説も「30万人」説もともに鵜呑みにはできないし、感情を排した研究はさらに必要だという立場ですが、ただ事件の当事者がなお生存している現在にあっては、真に冷静な研究は無理であろうと考えます。恐らく早くてもあと半世紀くらい、当事者の曾孫や玄孫の代くらいにならなければ、双方が理性的になるのは難しいのではないでしょうか。その間はせめて不幸な目にあった人をこれ以上傷つけないことと、政治や外交の道具にしないことが望まれます。

 社会科学は拠って立つ方法論から疑うべしというご主張も、「やたら権威を否定ばかりしているとトンデモになるよ」などと主張している者としては大変耳が痛いものです。ただ中国古典研究は文献を読む「技術」は伝統が重んじられますが、作品解釈に関しては新しい視座を積極的に導入する人が増えています。私の師匠も次々と新鮮な読み方を提示されるので、むしろ「既成の見方を疑う」ことで師にはとてもかなわないと思っている次第です。(もっとも素人研究家は「技術」がないまま権威を全否定したがるからトンデモ扱いされるわけですが。)

投稿 朴斎 | 2007年4月11日 (水) 00時43分

 こんばんは
 佐佐木晃彦と申します。
更新したHPの文章の中で 朴斎雑誌さんのHPアドレスを紹介させて戴きました 。

わたしは中国古典文献にはまったく疎い人間で、先生のHPにコメントはできませんが、

>中国古典研究は文献を読む「技術」は伝統が重んじられますが、作品解釈に関しては新しい視座を積極的に導入する人が増えています。私の師匠も次々と新鮮な読み方を提示されるので、むしろ「既成の見方を疑う」ことで師にはとてもかなわないと思っている次第です。(もっとも素人研究家は「技術」がないまま権威を全否定したがるからトンデモ扱いされるわけですが。)

を拝読し、深く思うところがありました。


正直、南京事件のような問題をHPに取り上げるつもりはなかったのですが、ことの成り行き上きちんと対応したいと思っております。
 ご批判ご感想を頂戴できればと思います。


http://galo2.hp.infoseek.co.jp/nannkinn4.html

【随想 フォーカスの問題 ― 「南京事件論争」 読者の方々の反応に寄せて⑧―】


投稿 佐佐木晃彦 | 2007年5月13日 (日) 23時14分

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