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2006年11月23日 (木)

訓読の功罪 その1

 日本人は古来中国の古典を訓読によって読んできた。訓読を用いれば、中国語の発音を知らなくても、元の中国語の文そのままで、日本語によって読むことができるのであり、世界でも類を見ないすばらしい翻訳方法であるといえる。(もっとも最近の研究では、訓読の発祥は朝鮮半島であることが明らかになってきているが、朝鮮ではその後訓読は廃れ、漢字を朝鮮語音で上から順に読む音読が主流になった。日本では逆に訓読が音読を圧倒し去り、さまざまな改良が加えられて生き延びたのである。)

 しかし現代の日本人にとって、訓読による漢文は「チンプン漢文」と揶揄されるほど難しい代物になってしまっている。特に国語の中の必修科目として学ばされる中高校生には、「何でこんなものをやらなければならないのか」と釈然としない思いを抱えている人も多いことであろう。そもそも漢文はセンター試験で出題されるから、高校でもしぶしぶ時間を割いて教えているというのが実情であって、もしセンター試験から漢文が消えれば、世界史でさえごまかしてしまう高校もあるくらいなのだから、これ幸いと漢文を教えるのをやめてしまう高校が続出するのは目に見えている。

 では漢文はなぜ「難しい」のであろうか。まず第一に、訓読という作法の不自然さがある。返り点に従って下から上へ、上から下へと行きつ戻りつしながら読むこと自体が極めてややこしいことであるし、「將」を「まさに……せんとす」、「未」を「いまだ……ず」とわざわざ2回も読んだり、「於」「矣」などの字を読まないのに加えたりとなれば、どうしてこんなことをしなければならないのかと腑に落ちない人も出てこようというものである。

 それに訓読は日本語の文語文を用いて行なうものであるから、訓読してみても直ちに意味が分かるわけではなく、それをもう一度口語に置き換えるという二度手間をかけなければ理解できない。しかも現代の日本人は文語を読むことは一応習っても、文語で作文することまで教わる機会はまずない。与えられた訓読を理解するところまでは何とか行ったとしても、文語を自由に操れなければ、白文に自分で訓点をつけて訓読するのは到底おぼつかないのである。これも漢文が敬遠される大きな理由であろう。

 だが訓読は本当に「難しい」のであろうか。そもそも返り読みが必要なのは、日本語と中国語では語順が違うからである。恐らく漢文の授業の始めで先生からそう聞かされるはずだが、これがどうしても体で理解できない人が多いようである。

 そこで中国語と同じく日本語と語順が異なる英語で考えてみよう。例えば

I love you.

という文を見れば、誰でも「私はあなたを愛する」と訳すことであろう。Iが「私」、love が「愛する」、you が「あなた」だからといって、そのままの順番で「私は愛するあなた」などと訳す人はいない。我々は「AをBする」は英語では「BA」という逆の語順になるという文法を知っているから、love you を難なく「あなたを愛する」と訳せるのである。

 しかし英語の初心者にとっては、どこで語順がひっくり返るのか見極めるのは至難の業である。そこで次のように表記してみるとどうだろうか。

I_love_you_2

こうすれば単語一つ一つの意味もわかるし、love you が「あなたを愛する」とひっくり返ることも一目瞭然である。この方法は実はジョン万次郎が作った英語の入門書で用いられていたもので、単語の意味と文法とを同時に理解するための便法として漢文の訓点を応用したのである。

 「I love you.」を古典中国語(漢文)で表せば「我愛汝」となる(英語の love と古典中国語の「愛」とは厳密には異なるが、それはひとまずおく)。これに訓点を施せば

Woaini_1

であって、英語の場合と返り方は全く同じになる。我々が「I love you.」を「私はあなたを愛する」と日本語訳するのは、訓点の助けを借りずに「我愛汝」を「我は汝を愛す」と読むのと同じことなのである。

 このように考えれば、漢文訓読に返り読みが必要になる理由も理解しやすくなるのではないだろうか。我々は返り読みと同じことを、英語で訓点の助けも借りずにやってのけているのである。漢文で訓点を用いるのは、いわば補助輪付きの自転車に乗るようなもので、本来なら英文をいきなり和訳するよりはずっとやさしいことなのである。あとは文語の活用の規則と、文語特有の語彙を少々覚えてしまえば、訓読を自由自在に使いこなせる(はずである)。

 では訓読ができれば万々歳なのかといえば、実はそうではないのが古典中国語の厄介なところである。長くなるのでこの話についてはまた次回とする。

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