« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006年11月

2006年11月26日 (日)

「トンデモ原論」――人文系の「ニセ科学」対策

 科学のようで実は科学ではない「擬似科学」で今最も注目されているのは「水からの伝言」であろう。学習院大学の田崎晴明氏が最近 「水からの伝言」を信じないでくださいというわかりやすい啓蒙サイトを発表されたので、どのようなものか知りたい方はこちらを見ていただきたい。

 擬似科学(「ニセ科学」と呼ぶ人も多い)は相手にしないというのがこれまでの研究者の態度であったが、「水伝」は小学校で道徳の教材として使われるなど、自然科学の枠を越えた悪影響が目立つようになったため、さすがに無視を決め込み続けるわけにはいかなくなり、多くの学者が批判や啓蒙の活動を始めている。

 私もトンデモ「研究」の見分け方・古代研究編というサイトをやっている関係上、この問題はずっと注視してきたが、啓蒙活動をする研究者と一般の人々とのネット上でのやり取りを見ていると、いろいろと考えさせられるところがあった。以下に何点か記しておきたい。

その1 「何のためにトンデモ批判をやるのか」をはっきりさせておく必要がある

 「水伝」はその非科学性自体よりも、それが初等教育という場にまで進出してきたことの方が問題視されている。単なるトンデモなら放っておけばよいが、教育者の立場にある者がそれを簡単に信じ、道徳の教材として使おうとしたとなれば、長い目で見た被害は甚大だからである。

 つまり「無視できなくなったら批判するが、人畜無害なら放置する」というのが、プロの学者の一般的な態度である。それも一つの見識であろう。大型書店に行けば自称「研究家」のいわゆるトンデモ本はまともな研究書と肩を並べて堂々と陳列されているし、ネット上のトンデモサイトはそれにもまして数多い。それをしらみつぶしに叩いても、トンデモの種は尽きず後から後から湧いてくるであろうし、労多くして功少ないことは明らかである。

 しかしトンデモ研究は本当に人畜無害なのであろうか。昨今は専門家軽視の風潮が異常に高まってきているし、学者といえば「頭が固い」「小難しい理屈ばかり振りかざす」といったイメージばかりが先行しがちである。そしてネット上の情報をよく吟味しないですぐ鵜呑みにする人も増えている。一見したところ「わかりやすい」トンデモ研究が蔓延するには十分な環境がもう既に整っているといえるし、「学問とはお手軽なものだ。学者なんかもういらない」という誤解が蔓延するのはなおさら憂慮すべきことである。泥縄式に個別のトンデモを批判することとは別に、もっと一般的な 「トンデモ原論」即ち「どういうものをトンデモと呼ぶのか、どういう思考法がトンデモになるのか」ということをあらかじめ示しておくことは、決して無意味なことではなかろう。

 それに個別のトンデモ批判だけだと、自分では頭を使わずに、何でもかんでも「専門家」に「これはトンデモです、あれもトンデモです」と断定してもらいたがる人が増えてしまうことも考えられる。これではトンデモの洗脳を抜けて科学に洗脳されただけであって、根本的な解決にはなっていない。どうしても頭を使うのが苦手な人なら仕方がないが、 頭が使える人にはちゃんと頭を使うように促すことが、「トンデモ原論」のめざすところなのである。私のページもそういうコンセプトでやっている。

その2 批判する側もやみくもにするのではなく、やり方を研究しなければならない

 自らトンデモ説を発表してしまった人や、それに心酔している取り巻きを改心させるのはまず無理という点では、どの人も一致している。そこで「信じかかっている人や半信半疑の人」をターゲットにすることになるが、うっかりすると「学者は小難しい理屈ばかりこね回す」と、かえって彼らを離反させてしまいかねない。いかにして「理を尽くしながら平易に」 説くか。これは最近はやりのFD(ファカルティ・ディベロップメント=授業方法の開発研究)ともかかわってくるテーマであろう。無論私のページもまだ改善の余地は大いにあると思う。

その3 「相手の土俵に引きずり込まれない」ために細心の注意が必要である

 トンデモさんは「学問のルールに縛られない自由」を持っている(と勝手に思い込んでいる)。だからこちらがルールを持ち出せば、向こうはルール自体を否定してくる。「科学は絶対ではないし、万能でもない。お前らのルールも絶対ではない」という、一般人ならつい乗せられてしまう、ごく一部には真理を含んでいる言い訳がどうしておかしいのか。単に「科学」を強調するだけでは、これに対抗することは難しいであろう。

 まして人文系となると、そもそも実験はいらないし、見たところ「本を読んでピーチクパーチク言えばいいだけ」である。したがって真に厳密な実験で再現性を証明することを求めるという、自然科学のトンデモさんに対しては当たり前の手が、人文系のトンデモ批判では使えない。かわりに有効なのは基礎知識の欠如から来る誤解を突く方法と、 論理の矛盾を突く方法である。人文系といえども何を言っても許されるわけではなく、論理的・合理的・実証的な態度が求められるのは、自然科学と全く同じである。

 しかし前者は自らの誤解を決して認めようとしない人には通用しない。「その基礎知識こそが誤りだ」と言い張られたり、「博識を振り回すな」と開き直られたりするからである。また後者も議論のルールを知らない人には通用しない。詭弁を詭弁とも思わず平然と押し通されるからである。

 そして彼らには究極の武器がある。それは「一つの方法だけに固執するのはおかしい。学者は自分のやり方を狂信している。偉ぶって我々をバカだと決めつけるな」と、学問のルールそのものを否定してしまうことである。なるほどこれならどんな好き勝手なやり方でも押し通せるだろう。理不尽な要求をごり押しするヤクザが、抗議をはねつけるために口にする「お前そんなに偉いんかい」と同じ手口である。

 こういったセリフを吐かれると、ひるんでしまう人も多いことであろう。しかしこれらは、実は人の謙虚さにつけ込もうとする卑劣この上ないセリフである。だから我々は遠慮なくこう言えばよい。

 「少なくともあんたよりはずっと修業している分偉い」

と。
 
 学問のルールは多くの学者が長年にわたって議論を積み重ねるうちに形成されてきたものであり、トンデモさんの主張するマイルールよりはずっと普遍性を持っている。要するにどんな世界でもそうであるように、

 自分勝手や独り善がりは通らない

のである。相手の土俵に乗らなければならない義理などかけらもない。向こうが勝手に学問ぶって「類似商標」を掲げているのだから。
(もっとも一旦相手の土俵に乗った上で、そうするともっと不都合が生じることを指摘する「背理法」が有効な場合もある)

 結局人文系のトンデモさん本人に対しては、ひたすら「好き勝手を言うな」とはねつける以外に有効な手段は見いだせないようである。 「真っ向から相手にしない」という、昔から行われているやり方がやはり一番なのである。但し一般の人々に対しては、「どうしてそのような手段を取るのか」という説明をどこかでやっておく必要があろう。 そうでないと「学者は頭が固い」とか「既得権を失うのを恐れて新説を認めたがらない」とかいう誤解が広まってしまうからである。

 作家や画家のところにも、出版社やレコード会社にも、芸術家を志す人の作品が日々送られて来る。しかしよほどすばらしい出来でない限り、それらは無視される。どこがいけないかをいちいち説明して送り返すことはまずない。「それすら不可能なレベル」の駄作がほとんどだからである。こういう駄作を送り付ける人に限って、もし丁寧な説明などしようものなら、独り善がりな理屈を言ってしつこく絡みついてくることが多い。だからこういう手合いは無視するに限るのである。人文系の学問も(理系もそうだろうが)箸にも棒にもかからなければ無視されるのはこれと全く同じで、 「そんなに甘いもんじゃないよ」と声を大にして言っておくのが、少なくとも新たなトンデモさんを生まないことには資するところもあるのではないかと思うのである。

その4 熱くなりすぎない

 人文系のトンデモさんの中に、悪意の人はあまり多くない。金儲けと言ってもせいぜい自費出版の本を売る程度のもので、多くの人はただ単純に「自分の発見したすばらしい真理を世に広めたい」あるいは「昔自分をいじめた先公どもを見返したい」という一心で活動にいそしんでいるだけである。大学教員の側からみれば、彼らは箔をつけたいがために「どうか認めてちょうだい」とすり寄ってきて、無視されれば途端にアカデミズムを罵倒し出す「困ったちゃん」ではあるが、政治的な悪影響を与えかねない場合や、広範囲に広まって教育現場にも影響を及ぼしているような場合でなければ、それらを個別に叩くのは、かえって大人げない行為のような印象を与えかねない。

 しかも最近は斜めから世の中を冷笑するのがかっこいいような風潮が蔓延しているから、あまり使命感や正義感を表に出しすぎると、かえって一般の人々を遠ざけてしまう恐れがある。 「トンデモは皮肉や当てこすりで笑い飛ばす」 というのがやはり一番であろう。東海大学の春田晴郎氏のサイトはこの点とてもよくできていると思う。私もなるべく「笑い飛ばす」ことを心がけてはいるが、いかんせんギャグのセンスには乏しいので、なかなか思うようには行かないでいる。

 その上啓蒙活動に力を入れすぎると、同業からも胡散臭い目を向けられるという、非常に厄介な問題もある。研究あっての啓蒙活動であるから、本来の研究もちゃんとやっておかなければ、「上をめざす志を失って、下ばかり見て安心するようになった」と陰口を叩かれかねない。学界には「批判するなら自分よりも大物を批判しろ」という格言?もあるのだから。

 私のページも別に使命感や義憤だけで始めたわけではない。自分自身が神怪が多く登場する文献を研究テーマにしていることもあって、怪しげな人から問い合わせが来たり、論文が送り付けられてきたりすることが度々あったため、「いかがわしいことはやりません」という意思表示をしておく必要があるだろうという、ごく私的な思惑の方が大きい。だからこの活動を本業にするつもりはさらさらないし、組織立って何かやろうとも考えていない。トンデモ批判が自己目的化してしまうと、魔女狩りになってしまう恐れもあるのである。

結論

 いろいろ並べてみたが、結局人文系の研究者としては、やはり各人がそれぞれの分野で「トンデモ原論」を何らかの形で公にしておくのが、啓蒙活動として、また教育活動としても現実的であるように思う(特に日本古代史や日本古代文学の人にはぜひやってほしい。人文系では恐らくトンデモさんが一番集中する分野だから)。とはいえそのためにわざわざ組織を立ち上げたりすれば、ケンカや対立のイメージをあおることになりかねないから、志ある人同士で緩やかに連携を保つ程度で十分であろう。

 古代日本や古代中国を専門とする未来の研究者にとっても、大学に就職すれば「トンデモさんの襲来」は必ず経験することであるから、その場で当惑しないためのノウハウとしても、「トンデモ原論」はあった方がよい。

 それに何よりも、社会学的・心理学的・文化史的に「トンデモさんの心性」を考察するのは人文系の研究者の得意分野のはずである。自然科学の「トンデモさん」への対処法にも、「トンデモ原論」はいくらか資するところはあるのではなかろうか。

|

2006年11月23日 (木)

訓読の功罪 その1

 日本人は古来中国の古典を訓読によって読んできた。訓読を用いれば、中国語の発音を知らなくても、元の中国語の文そのままで、日本語によって読むことができるのであり、世界でも類を見ないすばらしい翻訳方法であるといえる。(もっとも最近の研究では、訓読の発祥は朝鮮半島であることが明らかになってきているが、朝鮮ではその後訓読は廃れ、漢字を朝鮮語音で上から順に読む音読が主流になった。日本では逆に訓読が音読を圧倒し去り、さまざまな改良が加えられて生き延びたのである。)

 しかし現代の日本人にとって、訓読による漢文は「チンプン漢文」と揶揄されるほど難しい代物になってしまっている。特に国語の中の必修科目として学ばされる中高校生には、「何でこんなものをやらなければならないのか」と釈然としない思いを抱えている人も多いことであろう。そもそも漢文はセンター試験で出題されるから、高校でもしぶしぶ時間を割いて教えているというのが実情であって、もしセンター試験から漢文が消えれば、世界史でさえごまかしてしまう高校もあるくらいなのだから、これ幸いと漢文を教えるのをやめてしまう高校が続出するのは目に見えている。

 では漢文はなぜ「難しい」のであろうか。まず第一に、訓読という作法の不自然さがある。返り点に従って下から上へ、上から下へと行きつ戻りつしながら読むこと自体が極めてややこしいことであるし、「將」を「まさに……せんとす」、「未」を「いまだ……ず」とわざわざ2回も読んだり、「於」「矣」などの字を読まないのに加えたりとなれば、どうしてこんなことをしなければならないのかと腑に落ちない人も出てこようというものである。

 それに訓読は日本語の文語文を用いて行なうものであるから、訓読してみても直ちに意味が分かるわけではなく、それをもう一度口語に置き換えるという二度手間をかけなければ理解できない。しかも現代の日本人は文語を読むことは一応習っても、文語で作文することまで教わる機会はまずない。与えられた訓読を理解するところまでは何とか行ったとしても、文語を自由に操れなければ、白文に自分で訓点をつけて訓読するのは到底おぼつかないのである。これも漢文が敬遠される大きな理由であろう。

 だが訓読は本当に「難しい」のであろうか。そもそも返り読みが必要なのは、日本語と中国語では語順が違うからである。恐らく漢文の授業の始めで先生からそう聞かされるはずだが、これがどうしても体で理解できない人が多いようである。

 そこで中国語と同じく日本語と語順が異なる英語で考えてみよう。例えば

I love you.

という文を見れば、誰でも「私はあなたを愛する」と訳すことであろう。Iが「私」、love が「愛する」、you が「あなた」だからといって、そのままの順番で「私は愛するあなた」などと訳す人はいない。我々は「AをBする」は英語では「BA」という逆の語順になるという文法を知っているから、love you を難なく「あなたを愛する」と訳せるのである。

 しかし英語の初心者にとっては、どこで語順がひっくり返るのか見極めるのは至難の業である。そこで次のように表記してみるとどうだろうか。

I_love_you_2

こうすれば単語一つ一つの意味もわかるし、love you が「あなたを愛する」とひっくり返ることも一目瞭然である。この方法は実はジョン万次郎が作った英語の入門書で用いられていたもので、単語の意味と文法とを同時に理解するための便法として漢文の訓点を応用したのである。

 「I love you.」を古典中国語(漢文)で表せば「我愛汝」となる(英語の love と古典中国語の「愛」とは厳密には異なるが、それはひとまずおく)。これに訓点を施せば

Woaini_1

であって、英語の場合と返り方は全く同じになる。我々が「I love you.」を「私はあなたを愛する」と日本語訳するのは、訓点の助けを借りずに「我愛汝」を「我は汝を愛す」と読むのと同じことなのである。

 このように考えれば、漢文訓読に返り読みが必要になる理由も理解しやすくなるのではないだろうか。我々は返り読みと同じことを、英語で訓点の助けも借りずにやってのけているのである。漢文で訓点を用いるのは、いわば補助輪付きの自転車に乗るようなもので、本来なら英文をいきなり和訳するよりはずっとやさしいことなのである。あとは文語の活用の規則と、文語特有の語彙を少々覚えてしまえば、訓読を自由自在に使いこなせる(はずである)。

 では訓読ができれば万々歳なのかといえば、実はそうではないのが古典中国語の厄介なところである。長くなるのでこの話についてはまた次回とする。

|

« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »