人文系の研究者は神話やオカルトを信じるか ――あるいは「神話やオカルトとのつきあい方」――
科学が世の中をバラ色にしてくれると誰もが信じていた時代はとうに過ぎ去った。そこで科学以外のものに救いを求めようとする人々も当然出てくる。救いや拠り所を求める相手として一番手っ取り早いのはやはり「神」である。既成宗教にいう神仏の場合もあろうし、新興宗教の教祖の場合もあろう。また魔術や占いのようなオカルトの場合もあろうし、それらをよりソフトに言い換えた「スピリチュアル」に傾倒する人もいる。
彼らの中には神や霊魂の実在を認め、自然現象や社会現象を神が操っていると本気で信じたり、霊能者と称する人が「…… という現象は霊魂のせいだ。自分にはそれが見える」と言うのに対して何の疑いもはさまず熱狂する人も少なくない。
しかし自然科学の研究者はいわゆる「霊能者による霊視」を本当のこととは認めないし、それ以前に自然科学の研究対象にはしない。なぜなら霊能者本人が「見える、見える」と言っているだけでは、霊の存在は「検証不可能」だからである。誰にでも見える形で、しかもトリックの入る余地のない厳密な条件で、「霊以外の原因は考えられない」と言える客観的な証拠を示すことに成功したと認められた霊能者はまだいないし、もし百歩譲って霊が実在すると仮定したら、自然科学の法則に照らして具合の悪いことがたくさん出てくることも、安斎育郎『霊はあるか』(講談社ブルーバックス)で指摘されている。
神や霊魂を信じる人々も、そんなことはもちろん百も承知であろう。そこで自然科学そのものを「科学でもわからないことはたくさんあるのに、神や霊魂の実在を否定するのはおかしい」と攻撃したり、「科学では神や霊魂は実在しないが、スピリチュアル的なものの見方は科学とは異なるものだ」と、自然科学と同じ土俵に乗るのを避けたりする。
前者のような主張に対しては、自然科学者の側から既にさまざまな反論がなされているから、ここで改めて取り上げる必要もないだろう。しかし後者のような主張をする人の中には、宗教学・神話学、あるいは精神分析などの人文科学なら、神や霊魂の実在を証明してくれるかのように思っている人もいるようである。ひょっとすると自然科学の研究者の中にも、宗教学者は神を信じているかのように思っている人がいるかもしれない。
しかし結論から言うと、宗教学者も仏典や聖書に書いてあることをすべて真実だと思っているわけではないし、神話学の研究者も神話に書かれていることがすべて本当にあったことだと信じているわけではない。昔話や民話の研究者も、民衆の語り伝えた不思議な物語が本当に起こりうるとはもちろん信じていない。
聖典や神話伝説の研究者の仕事は、それらに書かれていることの真偽を判定することではない(テキスト自体が後世の偽作ではないかという意味での「真偽」なら重要なことだが)。本当かウソかはひとまずおいて、その泥沼をエイヤッと飛び越えてしまうのである。 「昔の人々はそれを信じていた」という事実の方がずっと重要なのであって、 そのことが人々の思想や芸術、行動様式や社会にどのような影響を与えたかということが、研究者の一番の関心事である。だから話自体が本当かウソかは、有り体に言えば「どちらであろうと自分の研究テーマには影響しない」なのである。
「霊能者による霊視」も、人文系の研究者なら「それが本当かどうか」にはほとんど関心を示さない。それよりも「霊能者と称する人々がいて、それを信じて有り難がる人々がいる」という事実をまず認めた上で、
- 霊能者を信じて「癒やされる」心理はどのようなものか
- 霊能者はどのような歴史的経緯で現れてきたのか
- 霊能者の社会的地位や役割は時代とともにどう変わってきたか
- 霊能者の語る霊視にはどのようなパターンがあるのか
といったことの方を解明しようとするのである。もしあえて「霊能者の言っていることは本当なのか」と人文系の研究者に尋ねたとしても、恐らく自然科学者と同じような答えしか返ってこないだろう。即ち「科学的にはウソでしょう」「それを決めるのは私の仕事ではありません」といった、ごく常識的な答えである。
もしあなたの志望する、もしくは在学する大学に神話やオカルトを研究している先生がいたとしても、「江原某の主張が正しいことを証明したい」「言霊の現実性を研究したい」「陰陽師の方術は本当かどうか確かめたい」などといった動機で入門すれば、必ずや当てが外れることになるであろう。学問の世界では「お話」はどこまで行っても「お話」 なのである。「何だつまらない」と言う人もいるだろうが、「お話」は真偽にこだわらなくても、「お話」のままで十分楽しめるではないか。古代人のすさまじいまでの空想力に思いをはせるもよし、人の心の複雑怪奇かつ玄妙なメカニズムに驚くもよし。神話伝説やオカルトは事実でないから全く価値がないのではなく、「お話」としての価値をちゃんと持っているのであり、つきあい方次第で我々に豊かな心の糧を与えてくれるのである。
また反対に、神話やオカルトを研究していると聞いて「怪しげなことをやっているのではないか」と引いてしまうのも早計である。授業で「布教」や「洗脳」をされるわけでもないし、「神話を信じなければ単位を出さない」などと脅されるわけでもない(もしそんなことをやっている先生がいたら、早くしかるべき所に訴えた方がよい)。神話やオカルトを「本当かウソか」「信じるか信じないか」というステレオタイプな次元ではなく、もっと別の観点から、突き放して客観的に考えてみることを学ぶのは、むしろ怪しげな言説に引っかからないための免疫ともなるはずである。
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朴斎雑志というブログの「人文系の研究者は神話やオカルトを信じるか」
http://puzhai.cocolog-nifty.com/zazhi/2006/12/post_c49b.html
に、次のようにありますが、まったく、私もそう思います。
本当かウソかはひとまずおいて、(中略)「昔の人々はそれを信じていた」という事実の方がずっと重要
このブログの冒頭にくるように置いている「「語源説... [続きを読む]
受信: 2006年12月29日 (金) 18時39分

コメント
こんにちは、朴斎さん。
>「何だつまらない」と言う人もいるだろうが、「お話」は真偽にこだわらなくても、「お話」のままで十分楽しめるではないか。
こと、歴史的な意味を持っている「お話」に関しては、「楽しめる」を越えて、「尊敬」することもできると思うわけです。私のやっている「化学」などは、そのルーツは錬金術や練丹術にあるわけです。まあ、「鉛を金に変える」とか「不老不死の薬をつくる」だとかの部分のみを見ると「単なる詐欺じゃないか」となるわけですが、その「間違った理屈」をよく見るなら、「自然現象をひたすら良く観察して、なにかしらの理由を探す」という姿勢が見える訳です。純粋な金も柔らかく鉛も柔らかい、そして互いに良く混ざり合うとかの熱心な観察から、「金と鉛は似たような面が多いから変えられるのではないか」なんてね。練炭術の方は水銀などもよく使っている訳ですが、いわゆる丹(硫化水銀)の防腐作用をよく知っているから、「薬にすれば、人間も老いなくて済むかも」となっている訳ですね。たしかに、間違っている訳ですが、その時代の人間が精一杯に自然現象を観察して「理屈を考えてきた」という部分において、私は「尊敬」に値すると考えるわけです。
だからこそ、逆にその「間違い」を「間違っていない」と思いたがる様な現代人の姿は、「先人を貶める」ことの様にも思えたりする訳です。まだ何一つ頼りになる理屈が確立しない時代に、ひたすら自然を観察して、その時なりに理屈を成り立たせようとした上で、現代から見れば間違っている訳ですから、その結論は否定しながら、その「解明しようとした姿勢」を評価するのが先人に対する礼儀だと思うわけです。
私は自然科学を飯の種にしていますが、趣味として中国史が大好きです。安陽の遺跡から出た沢山の甲骨文字の多くが「占いを記述したもの」であると言うことなどに、ロマンを感じたりするわけです。もちろん、亀の甲羅や動物の肩胛骨に入ったヒビが未来を教えてくれるわけは無いのですが、それを「天の啓示」と思い、ひたすら「きちんと記述して残さなくては」と啓示を彫りつける中で「漢字」ができあがってくる姿などに、「人間の文化」というものを感じたりする訳です。
投稿 柘植 | 2006年12月25日 (月) 14時21分
柘植さん、こんにちは。
> たしかに、間違っている訳ですが、その時代の人間が精一杯に自然現象を観察して「理屈を考えてきた」という部分において、私は「尊敬」に値すると考えるわけです。
錬金術は「誤ってはいたが科学の発展につながった例」としてよく引かれますね。錬金術は当時としては呪文や祈祷に頼るよりもずっと合理的な考え方だったわけで、こうした点も公平に評価できるようなものの見方を養うのも、大学教育の重要な役割ではないかと思います。
> 何一つ頼りになる理屈が確立しない時代に、ひたすら自然を観察して、その時なりに理屈を成り立たせようとした上で、現代から見れば間違っている訳ですから、その結論は否定しながら、その「解明しようとした姿勢」を評価するのが先人に対する礼儀だと思うわけです。
私も同感です。神話は科学が未発達の時代に、科学にかわって自然や社会の成り立ちを説明するよりどころだったのですから、現代の高みに立って「くだらない」と切り捨てるのも、逆に無批判に受け入れようとするのも、どちらもあまり生産的ではないと思います。「わからないことに囲まれている恐怖」の中で懸命に生きてきた先人たちが残したものは、やはり公平に評価して役立てたいですね。
> 安陽の遺跡から出た沢山の甲骨文字の多くが「占いを記述したもの」であると言うことなどに、ロマンを感じたりするわけです。
甲骨文は占いの文句やその結果を記録したものですが、この占いは王が政治に際して天の意思を聞くためにするものであって、文字を書くのは王に直属する占い師だけができることでした。今の我々にとって文字は空気と同じような存在ですが、当時の人にとっては、文字で言葉や出来事を永遠に保存しておけるのは、神の所業に等しい畏敬すべきことだったに違いありません。だからこそ文字は神聖なものとして王権が独占していたわけです。テレビが初めて世に現れた頃の、村長の家だけにそれが鎮座していて、見る時には皆で拝んでからやおら覆いを開けて見ていたような光景を思い浮かべればわかりやすいでしょう。
投稿 朴斎 | 2006年12月27日 (水) 19時54分