沐猴にして冠するのみ
財界のお歴々の年頭の発言が報じられてからというもの、16年も前の申年にちなんで作った七言絶句が思い出されてならない。
当時はまだ修士課程の院生だったが、金はなくてもヒマはたっぷりあったので、手慰みで自己流の漢詩をひねっていた。 漢詩は短歌や俳句とは違って、単に字数を合わせればよいというものではなく、対句や押韻や平仄などややこしい規則がたくさんある。 だから初心者は詩語集や韻書と首っ引きになって何日もかけ、規則に合う言葉を探してパズルのように当てはめていくことになる。 詩情を催してその場ですぐ詩を作れるようになるには、相当な修練を積まなければならず、今では中国古典詩の研究者でも、 そこまでできる人は非常に少なくなった。私ももちろんできない。もしちゃんと人に習って訓練を続けていたなら、 いっぱしの詩人になれたかも知れないが、大学に職を得てからは詩作に時間を費やす心の余裕を失ってしまい、 結局手慰みのままで終わってしまった。これまで作った作品も、今までごく内輪にしか披露してこなかったが、 今度ばかりは腹にしまっておきかねるので、ここでご笑覧いただくことにする。干支違いは何とぞご容赦を。
猿狙
(えんそ)
猿狙固無知足情 猿狙 固(もと)
より知足の情無く、
唯婪樹果盗蕪菁 唯(た)
だ樹果を婪(むさぼ)
り蕪菁(ぶせい) を盗むのみ。
貪賈爭覓目前利 貪賈(たんこ)
争って覓(もと) む 目前の利、
疑是沐猴而緊纓 疑うらくは是れ沐猴(もっこう)
にして纓(えい)
を緊(し)むるかと。
――猿にはもともと「足るを知る」という心などあるはずもなく、 木の実をむさぼり食ったり畑のカブを盗んだりするばかりだ。欲張り商人どもは争って目先の利益ばかり追いかけているが、 まるで猿のくせに冠のひもを締めているようじゃないか。
この詩は確かリクルート事件に感ずるところあって作ったものと記憶するが、今でも全く古くなっていないどころか、 ますます新しくなっているようにさえ思うのである。
最後の句は項羽が秦の都咸陽の宮殿を焼き払い、財宝と美女を分捕ってから、故郷に凱旋して見せびらかそうとしたところ、 ある遊説家が「人々は『楚人沐猴而冠耳 (楚人 沐猴にして冠するのみ=楚国出身の項羽は猿のくせに冠をかぶっているにすぎない)』と言っているが、やっぱりその通りだ」 とそしったという、『史記』項羽本紀に見える故事を踏まえる。
狭量な項羽はこの言葉に激怒し、言った人を釜ゆでの刑にしてしまったというが、
こんな詩を詠んだくらいで釜ゆでにされるような世の中が来ないことを切に願うものである。ひと昔前なら一笑に付される杞憂だったが、
今は必ずしも杞憂ではなくなったことが悲しまれてならない。
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/113185/13377908
この記事へのトラックバック一覧です: 沐猴にして冠するのみ:

コメント
こんにちは、朴斎さん。たびたびお邪魔してすみません。
私に漢詩を鑑賞する力はあまりないのですが、「詩は士大夫の志を練る」という事を意識して読むと、お若い頃の朴斎さんの「公憤」があふれ出ている感がします。
今、菊池先生のニセ科学批判のブログなどで「我々がニセ科学の蔓延に対処する情熱を燃やすのは何故か?」みたいな議論もしている訳ですが、社会の事象を見て自分の利害とは別に「こんなことは在って良いわけはなかろう」と憤慨するということが、素直に出せない社会にだんだんと成ってきている気がします。というか、それを素直に出しても「そう本気で怒ることでもなかろう」といった醒めた態度に直面するのが普通となりつつあるという感じでしょうか?
こういう用法が正しいのかどうか知りませんが「馬馬虎虎」と無関心を装って保身を図るのは士大夫の態度ではないだろうと私は思っています。
投稿 柘植 | 2007年1月10日 (水) 17時56分
柘植 さん、こんばんは。
> 「詩は士大夫の志を練る」という事を意識して読むと、お若い頃の朴斎さんの「公憤」があふれ出ている感がします。
ありがとうございます。中国最古の詩集である『詩経』から既に鋭い現実批判の詩がたくさんあり、杜甫や白居易のような大詩人もそれに学んで痛烈な社会批判の詩を多く残しました。しかし本当は初心者が社会派の詩に手を出すのはあまり良くないこととされていまして、最初は花鳥風月のような月並みな題で、詩語集から言葉を選んで練習を積んでからでないと、独り善がりな作品になりがちだということです。
> 社会の事象を見て自分の利害とは別に「こんなことは在って良いわけはなかろう」と憤慨するということが、素直に出せない社会にだんだんと成ってきている気がします。
ニセ科学はまさしく「たかがニセ科学、されどニセ科学」であって、それが対応を難しくしていると言えそうですね。プロの研究者の側から言えば、ニセ科学がはびこるのは腹立たしいけれども、まじめに批判しても「相手は聞く耳を持たないし、うっかりすれば揚げ足を取られてますます増長されるし、研究業績にもならないし、同業からも胡散臭がられ、一銭も儲からない」と、何一ついいことがないというのが本音です。そうかといって放置しておくのも、真綿で首を絞めるように学校の現場に悪影響が出てくる恐れがあるので、頭を痛めている人もいるわけです。
声を上げることは大切ですが、やみくもに大声を出せばいいというわけでもなく、試行錯誤しながら「戦術」を模索していくことも必要でしょう。剣豪塚原卜伝が渡し舟の上で真剣勝負を挑まれた時、うまく言いくるめて相手を小島に上がらせ、自分は上陸せずに舟を出してしまい、「戦わずして勝つのが無手勝流だ」とその血気を戒めたという有名な故事にも、教訓として学ぶところは大いにあると思います。つまらない相手には「あえて戦わず、自分からこけさせる」のも立派な戦術なのです。
社会全体が憤慨を素直に出せなくなってきているというのは確かにあるでしょう。大学人もだんだん萎縮してきて「事なかれ」がはびこってきているのは否めません。
しかし研究者にもいろいろなタイプの人がいて、一流大学で研究の最前線に立つ人もいれば、地域密着で教育や啓蒙に力を入れる人もいます。音楽家にたとえれば前者は小澤征爾、後者は山本直純といえるでしょう。この二人に同じ役割を期待する方が無理な話で、「研究成果の社会への還元」はやはり山本直純タイプの研究者の仕事だろうと思うわけです。もっとも私自身は山本直純ほど親しみやすいキャラクターではありませんし、タレント性もありませんが、音楽の面白さを多くの人に知ってもらうことに徹したその精神は少しでも見習いたいと思います。
なお「馬馬虎虎」は「いいかげんである」あるいは能力などを控えめに言って「まあまあです」といった意味で、この場合は少しずれると思います。
投稿 朴斎 | 2007年1月14日 (日) 01時58分