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2007年5月 4日 (金)

「角の三等分屋」への対処法に学ぶ

■「角の三等分屋」とは

 幾何学における「ギリシャの三大難問」はご存じの方も多いと思う。定規とコンパスのみを使って、次のような作図を行えというものである。

  • 与えられた立方体の2倍の体積の立方体を作図せよ。
  • 与えられた任意の角を三等分せよ。
  • 与えられた円と同じ面積の正方形を作図せよ。

なお定規は直線を引くためだけに用いるもので、目盛りを使ったり、三角定規で角を使ったりしてはならないし、コンパスも円や円弧を描くためだけに用い、作図は有限回数の操作で行わなければならないという条件がつく。

 問題の意図は誰にもわかりやすいが、では実際に作図するにはどうすればよいのか。この問題は2000年以上にわたって数学者を悩まし続けたが、解析幾何学や微積分学の進歩に伴って、代数的な方法によってすべて「不可能」であることが証明された。

 ところがわかりやすい問題であるだけに、「不可能」が証明されてからもなおこの問題に挑戦し、それができたと思いこむアマチュア数学者が後を絶たず、プロの数学者にとっては厄介な存在であるという。

 特に角の三等分が「できた」と思いこむ自称「数学者」は「三等分屋」あるいは「三等分家」と呼ばれている。彼らが自分一人で悦に入っているだけならまだいいのだが、それを世間に発表しようと、数学者や数学雑誌の編集者のところに論文を送りつけてきたり、実際に乗り込んできたりするのである。

 矢野健太郎『角の三等分』(ちくま学芸文庫)に付録されている一松信の解説の中に、「角の三等分屋」 という一章があり、こうした「三等分屋」の生態が紹介されている。さらに亀井哲治郎「『角の三等分家』と付き合ってみて」 という文もその後ろに付録されていて、数学雑誌の編集者として実際に「三等分屋」の相手をした経験が紹介されている。

 中でも亀井氏の「三等分屋」とのやり取りはなかなかに生々しい。通常は不可能であることを説明した上で、論文を受け取らずにお引き取り願うところを、その時はなぜか魔が差して受け取ってしまったばかりに、亀井氏が懸命に間違いを探して返事した。すると相手はそれを直したと言ってまた論文を送ってきて、亀井氏が再び間違いを探し、相手はまた直して送ってくる――と繰り返した挙句、亀井氏がとうとうぶち切れて「もう二度と送ってこないで下さい!」と電話の向こうの相手に怒鳴りつけ、やっと幕になった。しかしこの出来事は亀井氏にとってトラウマとなったというのである。

 では実際に「三等分屋」がやって来たら、どう対応するのが一番いいのか。一松氏も亀井氏も、ともにダッドリー「三等分家がやってきた――さてどうするか」(野崎昭弘訳、『数学セミナー』1983年11月)という論文を引いて、まず「三等分屋」の特徴を

  1.  概してみな年寄りで、ほとんどが男性である。何年もそれに没頭してからやっと方法を見つける。
  2.  数学で言う「不可能」の意味を全くわかっていない。「あることを不可能と宣言するのは、 その問題に手をつける以前に既に自分の限界を示すことではないか」と言い出す人までいる。
  3.  みなほとんど数学を勉強していない。せいぜい高校の幾何学あたりまでである。

とまとめた上で、その対処法を次のように言う。

  1.  ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。
  2.  その作図法で出る誤差についてコンピューターの検索結果を示す。その発見は単に「精度のよい近似法」 を見つけたに過ぎないことを認識させるためである。
  3.  冷酷になれ。

もっとも亀井氏は、「あれだけ数学に打ち込んでいる人なのだから、もっと別の接し方があったのではないかと、時々考えることがある」のだとも言う。

■人文系の「○○屋」

 さて人文系の分野でも、「三等分屋」のような自称「研究家」は存在する。たとえば「邪馬台国屋」 「徐福屋」あるいは「字源屋」 などには手を焼いている研究者も多いことと拝察するが、彼らの特徴もダッドリーのいう「三等分屋」の特徴とほぼ同じである。

(邪馬台国・徐福・字源などの研究家がみなそうだというのではない。学問的におよそ成り立ち得ないような奇説珍説を唱え、学界に殴り込んでくるような人を「○○屋」と呼ぶのである。)

  1.  概してみな年寄りで、ほとんどが男性である(ごく少数だが女性もいる)。何年もそれに没頭してからやっと方法を見つける。
  2.  「あり得ない」「無理」の意味を全くわかっていない。「100パーセントあり得ないわけではないのだから、 一縷の可能性にかけてみなければわからないではないか」と言い出す人までいる。
  3.  みなほとんど漢文(あるいはその他必要な科目)を勉強していない。せいぜい高校の授業あたりまでである。

このうち問題になるのは2であろう。数学での「不可能」は、完璧に証明することが可能であるが、文献の読み方における「不可能」は、完全な証明をすることはできない。それでも多くの文献の例から、「経験的に可能性は極めて低い」と結論づけることはできるのであって、便宜上それを「あり得ない」「無理」と表現するのである。しかし文献を読む「経験」を十分積んでいない人にとっては、「経験的に」ということがそもそも理解不能なのである。

 そして彼らへの対処法はどうだろうか。まず

1 ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。
3 冷酷になれ。

この二つについては、「三等分屋」の場合がそのまま応用できそうであるが、

2 その作図法で出る誤差についてコンピューターの検索結果を示す。

これは人文系の場合はそのようにはいかない。「経験的にあり得ない」という説明をするか、論理的な矛盾を突くか、あるいは相手の主張を認めるともっと具合の悪いことが生じることを示す「背理法」を用いることが、これに代わりうる対処法であるが、それでも詭弁を並べてのらりくらりと言い逃れる手合いが非常に多い。しかも相手はたいてい恐ろしく長大な「研究」を示してくるから、やり取りを続けるうちに議論がどんどん拡散し、収拾がつかなくなることも多い。

 そのような場合は「一番素朴な疑問を一つだけ提示する」 というのも手であろう。無理して細かく批判し、うっかりミスをやってしまっては大変である。相手は鬼の首を取ったように喜び、ここぞとばかりに居丈高に振る舞い出す。そうなっては手をつけられなくなる。

 あるいはわざとピントをずらした答え方をしたりして、相手に「理論」の説明をどんどん語らせ、基礎知識の欠如や誤解を露呈させるという手もあるが、これはかなりの高等戦術になるだろう。常に成功するとは限らないし、こちらがケガをするおそれもあるからである(実は私も「ケガの功名」でこの戦術に気づいた次第である)。

 また最初から罵倒調の物言いをされていたら、こちらも売り言葉に買い言葉で応酬したくなってしまうが、これもできる限り避けたいところである。「あくまで姿勢は低く、口調はソフトに、しかし切れ味は鋭く」が理想である(難しいことではあるが。私も虫の居所の悪いところへいやらしい口調の罵倒書き込みをされ、つい買い言葉で応酬して失敗したことがある)。

 以上まとめてみると、

  1.  ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。姿勢は低く、口調はソフトに、しかし切れ味は鋭く。
  2.  まずは「経験的にあり得ない」ということを説明する。
  3.  長文の場合は全部をいちいち取りあげず、一番素朴な疑問を一つだけ提示する。
  4.  食い下がってくる場合は、相手にどんどんしゃべらせ、語るに落ちさせる。
  5.  冷酷になれ。

こんなところであろうか。

■メールや掲示板の場合は

 もっとも実際には、最初から「冷酷になる」人、即ち論文を一目見てまっすぐゴミ箱に投げ込む人がほとんどであろう。忙しい研究者にとってはそれも仕方のないことである。

 しかし紙に書かれた論文ならそれでもよいが、電子メールで送られてきたような場合や、運営しているHPの掲示板に書き込まれたような場合は、最初から無視するのは難しい面もある。そこで「最初のメール・書き込みには丁寧に答えよ」ということになるのであるが、これが言うは易く行うは難しいのである。忙しい時には相手の文面を丁寧に読む気になどならないし、文面に全部書いてあればまだしも、相手のHPに誘導されて膨大な「研究」を読まされ、それが徹頭徹尾デタラメだったりしては、たまったものではない。

 そこで先に挙げた2~4の戦術を駆使することになるのであるが、実際にやるとなると思った以上にエネルギーを消費するものである。私のやっている「トンデモ『研究』の見分け方」も、最近は「その筋」にも存在が知られてきたようで、トンデモさんと直接相まみえる(といってもネット上でだが)機会も多くなってきた。

 その感想はとにかく「疲れる」。この一言に尽きる。 亀井氏の心中も察するに余りあるというものである。もともと 「トンデモさん本人を変えることは難しい」というのが私のスタンスである。 だからわざわざ文句を言いに来なくても、好き勝手にやってくれればいいものを、やはり「邪魔者は消さずにはいられない」「言い負かして金星を取りたい」という誘惑に駆られるものであるらしい。

 この種のHPを掲げる以上、それはやむを得ないことではあるが、しかしその運営に疲れて仕事ができなくなっては元も子もない。となると究極の対策は「掲示板を設けない」 ということになるだろう。

 他の擬似科学批判サイトを見てみても、掲示板を設けて精力的に書き込みをしている人もいれば、掲示板を一切設けない人もいる。掲示板を設けているところでも、多くの常連さんが書き込んでいるようなところであれば、トンデモさんもよほど肝の据わった人でない限り、入る余地はないと退散するようであるし、もし入ってきても、他の常連さんが袋だたきにしてしまうから、あまりエネルギーを消費しなくてもすむのかもしれない。

 もっとも常連さんの多い掲示板でも、一人のトンデモさんに攪乱された末に、閉鎖に追い込まれたケースもある。 「凝り固まっている人」のパワーは侮れないのである。しかもこの種の人は、いきなり掲示板を閉鎖すると「言論封殺」だと騒ぎ立てるから何とも始末が悪い。当面リードオンリーにしておいて、頃合いを見て閉鎖するのが、「言論封殺」「臭いものに蓋」と罵倒する口実を与えない方法としてはベターであろうと思う。

 私の場合は「トンデモ」コンテンツを設ける以前から、掲示板では荒らし対策に追われるおそれがあると考え、「ゲストブック」という妥協策をとっていた。訪問者と管理者の一対一での対話しかできないシステムであるが、それでも掲示板と誤解して議論をしようとする人は後を絶たない。この妥協策は失敗だったようである。もともと書き込み頻度も多くなかったし、ここは決断のしどころかも知れない。

 トンデモさん本人とは相まみえたくはないが、それを信じかかっていたり、半信半疑であるような人との対話の場は設けておきたい。というのはやはり虫のいい願いなのであろうか。それにトンデモさん本人も決して頭の悪い人ではない。 ただ「頭の使い方がずれている」 だけなのである。「我執さえ去ってくれればいいのに……」と思うことも少なくないのであって、「もっと別の接し方もあったのでは」という亀井氏の心情も何となくわかる。

 そこで先の対処法にもう一つ付け加えておきたい。

6 「武士の情け」を持とう。とどめを刺すのは最終手段。

相手を完膚無きまでに叩きのめしてしまったら、その人の生き甲斐を奪ってしまい、余計に人生を狂わせることにもなりかねないし、暴発して手がつけられなくなるかも知れない。「一番本質的な過ちは、最後の最後まで触れないで取っておく」のが、戦術としても思いやりとしても良いのではないだろうか。

■もう一度まとめ

  1.  ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。姿勢は低く、口調はソフトに、しかし切れ味は鋭く。
  2.  まずは「経験的にあり得ない」ということを説明する。
  3.  長文の場合は全部をいちいち取りあげず、一番素朴な疑問を一つだけ提示する。
  4.  食い下がってくる場合は、相手にどんどんしゃべらせ、語るに落ちさせる。
  5.  冷酷になれ。
  6.  「武士の情け」を持とう。とどめを刺すのは最終手段。

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