「角の三等分屋」への対処法に学ぶ
■「角の三等分屋」とは
幾何学における「ギリシャの三大難問」はご存じの方も多いと思う。定規とコンパスのみを使って、次のような作図を行えというものである。
- 与えられた立方体の2倍の体積の立方体を作図せよ。
- 与えられた任意の角を三等分せよ。
- 与えられた円と同じ面積の正方形を作図せよ。
なお定規は直線を引くためだけに用いるもので、目盛りを使ったり、三角定規で角を使ったりしてはならないし、コンパスも円や円弧を描くためだけに用い、作図は有限回数の操作で行わなければならないという条件がつく。
問題の意図は誰にもわかりやすいが、では実際に作図するにはどうすればよいのか。この問題は2000年以上にわたって数学者を悩まし続けたが、解析幾何学や微積分学の進歩に伴って、代数的な方法によってすべて「不可能」であることが証明された。
ところがわかりやすい問題であるだけに、「不可能」が証明されてからもなおこの問題に挑戦し、それができたと思いこむアマチュア数学者が後を絶たず、プロの数学者にとっては厄介な存在であるという。
特に角の三等分が「できた」と思いこむ自称「数学者」は「三等分屋」あるいは「三等分家」と呼ばれている。彼らが自分一人で悦に入っているだけならまだいいのだが、それを世間に発表しようと、数学者や数学雑誌の編集者のところに論文を送りつけてきたり、実際に乗り込んできたりするのである。
矢野健太郎『角の三等分』(ちくま学芸文庫)に付録されている一松信の解説の中に、「角の三等分屋」 という一章があり、こうした「三等分屋」の生態が紹介されている。さらに亀井哲治郎「『角の三等分家』と付き合ってみて」 という文もその後ろに付録されていて、数学雑誌の編集者として実際に「三等分屋」の相手をした経験が紹介されている。
中でも亀井氏の「三等分屋」とのやり取りはなかなかに生々しい。通常は不可能であることを説明した上で、論文を受け取らずにお引き取り願うところを、その時はなぜか魔が差して受け取ってしまったばかりに、亀井氏が懸命に間違いを探して返事した。すると相手はそれを直したと言ってまた論文を送ってきて、亀井氏が再び間違いを探し、相手はまた直して送ってくる――と繰り返した挙句、亀井氏がとうとうぶち切れて「もう二度と送ってこないで下さい!」と電話の向こうの相手に怒鳴りつけ、やっと幕になった。しかしこの出来事は亀井氏にとってトラウマとなったというのである。
では実際に「三等分屋」がやって来たら、どう対応するのが一番いいのか。一松氏も亀井氏も、ともにダッドリー「三等分家がやってきた――さてどうするか」(野崎昭弘訳、『数学セミナー』1983年11月)という論文を引いて、まず「三等分屋」の特徴を
- 概してみな年寄りで、ほとんどが男性である。何年もそれに没頭してからやっと方法を見つける。
- 数学で言う「不可能」の意味を全くわかっていない。「あることを不可能と宣言するのは、 その問題に手をつける以前に既に自分の限界を示すことではないか」と言い出す人までいる。
- みなほとんど数学を勉強していない。せいぜい高校の幾何学あたりまでである。
とまとめた上で、その対処法を次のように言う。
- ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。
- その作図法で出る誤差についてコンピューターの検索結果を示す。その発見は単に「精度のよい近似法」 を見つけたに過ぎないことを認識させるためである。
- 冷酷になれ。
もっとも亀井氏は、「あれだけ数学に打ち込んでいる人なのだから、もっと別の接し方があったのではないかと、時々考えることがある」のだとも言う。
■人文系の「○○屋」
さて人文系の分野でも、「三等分屋」のような自称「研究家」は存在する。たとえば「邪馬台国屋」 や「徐福屋」あるいは「字源屋」 などには手を焼いている研究者も多いことと拝察するが、彼らの特徴もダッドリーのいう「三等分屋」の特徴とほぼ同じである。
(邪馬台国・徐福・字源などの研究家がみなそうだというのではない。学問的におよそ成り立ち得ないような奇説珍説を唱え、学界に殴り込んでくるような人を「○○屋」と呼ぶのである。)
- 概してみな年寄りで、ほとんどが男性である(ごく少数だが女性もいる)。何年もそれに没頭してからやっと方法を見つける。
- 「あり得ない」「無理」の意味を全くわかっていない。「100パーセントあり得ないわけではないのだから、 一縷の可能性にかけてみなければわからないではないか」と言い出す人までいる。
- みなほとんど漢文(あるいはその他必要な科目)を勉強していない。せいぜい高校の授業あたりまでである。
このうち問題になるのは2であろう。数学での「不可能」は、完璧に証明することが可能であるが、文献の読み方における「不可能」は、完全な証明をすることはできない。それでも多くの文献の例から、「経験的に可能性は極めて低い」と結論づけることはできるのであって、便宜上それを「あり得ない」「無理」と表現するのである。しかし文献を読む「経験」を十分積んでいない人にとっては、「経験的に」ということがそもそも理解不能なのである。
そして彼らへの対処法はどうだろうか。まず
1 ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。
3 冷酷になれ。
この二つについては、「三等分屋」の場合がそのまま応用できそうであるが、
2 その作図法で出る誤差についてコンピューターの検索結果を示す。
これは人文系の場合はそのようにはいかない。「経験的にあり得ない」という説明をするか、論理的な矛盾を突くか、あるいは相手の主張を認めるともっと具合の悪いことが生じることを示す「背理法」を用いることが、これに代わりうる対処法であるが、それでも詭弁を並べてのらりくらりと言い逃れる手合いが非常に多い。しかも相手はたいてい恐ろしく長大な「研究」を示してくるから、やり取りを続けるうちに議論がどんどん拡散し、収拾がつかなくなることも多い。
そのような場合は「一番素朴な疑問を一つだけ提示する」 というのも手であろう。無理して細かく批判し、うっかりミスをやってしまっては大変である。相手は鬼の首を取ったように喜び、ここぞとばかりに居丈高に振る舞い出す。そうなっては手をつけられなくなる。
あるいはわざとピントをずらした答え方をしたりして、相手に「理論」の説明をどんどん語らせ、基礎知識の欠如や誤解を露呈させるという手もあるが、これはかなりの高等戦術になるだろう。常に成功するとは限らないし、こちらがケガをするおそれもあるからである(実は私も「ケガの功名」でこの戦術に気づいた次第である)。
また最初から罵倒調の物言いをされていたら、こちらも売り言葉に買い言葉で応酬したくなってしまうが、これもできる限り避けたいところである。「あくまで姿勢は低く、口調はソフトに、しかし切れ味は鋭く」が理想である(難しいことではあるが。私も虫の居所の悪いところへいやらしい口調の罵倒書き込みをされ、つい買い言葉で応酬して失敗したことがある)。
以上まとめてみると、
- ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。姿勢は低く、口調はソフトに、しかし切れ味は鋭く。
- まずは「経験的にあり得ない」ということを説明する。
- 長文の場合は全部をいちいち取りあげず、一番素朴な疑問を一つだけ提示する。
- 食い下がってくる場合は、相手にどんどんしゃべらせ、語るに落ちさせる。
- 冷酷になれ。
こんなところであろうか。
■メールや掲示板の場合は
もっとも実際には、最初から「冷酷になる」人、即ち論文を一目見てまっすぐゴミ箱に投げ込む人がほとんどであろう。忙しい研究者にとってはそれも仕方のないことである。
しかし紙に書かれた論文ならそれでもよいが、電子メールで送られてきたような場合や、運営しているHPの掲示板に書き込まれたような場合は、最初から無視するのは難しい面もある。そこで「最初のメール・書き込みには丁寧に答えよ」ということになるのであるが、これが言うは易く行うは難しいのである。忙しい時には相手の文面を丁寧に読む気になどならないし、文面に全部書いてあればまだしも、相手のHPに誘導されて膨大な「研究」を読まされ、それが徹頭徹尾デタラメだったりしては、たまったものではない。
そこで先に挙げた2~4の戦術を駆使することになるのであるが、実際にやるとなると思った以上にエネルギーを消費するものである。私のやっている「トンデモ『研究』の見分け方」も、最近は「その筋」にも存在が知られてきたようで、トンデモさんと直接相まみえる(といってもネット上でだが)機会も多くなってきた。
その感想はとにかく「疲れる」。この一言に尽きる。 亀井氏の心中も察するに余りあるというものである。もともと 「トンデモさん本人を変えることは難しい」というのが私のスタンスである。 だからわざわざ文句を言いに来なくても、好き勝手にやってくれればいいものを、やはり「邪魔者は消さずにはいられない」「言い負かして金星を取りたい」という誘惑に駆られるものであるらしい。
この種のHPを掲げる以上、それはやむを得ないことではあるが、しかしその運営に疲れて仕事ができなくなっては元も子もない。となると究極の対策は、 「掲示板を設けない」 ということになるだろう。
他の擬似科学批判サイトを見てみても、掲示板を設けて精力的に書き込みをしている人もいれば、掲示板を一切設けない人もいる。掲示板を設けているところでも、多くの常連さんが書き込んでいるようなところであれば、トンデモさんもよほど肝の据わった人でない限り、入る余地はないと退散するようであるし、もし入ってきても、他の常連さんが袋だたきにしてしまうから、あまりエネルギーを消費しなくてもすむのかもしれない。
もっとも常連さんの多い掲示板でも、一人のトンデモさんに攪乱された末に、閉鎖に追い込まれたケースもある。 「凝り固まっている人」のパワーは侮れないのである。しかもこの種の人は、いきなり掲示板を閉鎖すると「言論封殺」だと騒ぎ立てるから何とも始末が悪い。当面リードオンリーにしておいて、頃合いを見て閉鎖するのが、「言論封殺」「臭いものに蓋」と罵倒する口実を与えない方法としてはベターであろうと思う。
私の場合は「トンデモ」コンテンツを設ける以前から、掲示板では荒らし対策に追われるおそれがあると考え、「ゲストブック」という妥協策をとっていた。訪問者と管理者の一対一での対話しかできないシステムであるが、それでも掲示板と誤解して議論をしようとする人は後を絶たない。この妥協策は失敗だったようである。もともと書き込み頻度も多くなかったし、ここは決断のしどころかも知れない。
トンデモさん本人とは相まみえたくはないが、それを信じかかっていたり、半信半疑であるような人との対話の場は設けておきたい。というのはやはり虫のいい願いなのであろうか。それにトンデモさん本人も決して頭の悪い人ではない。 ただ「頭の使い方がずれている」 だけなのである。「我執さえ去ってくれればいいのに……」と思うことも少なくないのであって、「もっと別の接し方もあったのでは」という亀井氏の心情も何となくわかる。
そこで先の対処法にもう一つ付け加えておきたい。
6 「武士の情け」を持とう。とどめを刺すのは最終手段。
相手を完膚無きまでに叩きのめしてしまったら、その人の生き甲斐を奪ってしまい、余計に人生を狂わせることにもなりかねないし、暴発して手がつけられなくなるかも知れない。「一番本質的な過ちは、最後の最後まで触れないで取っておく」のが、戦術としても思いやりとしても良いのではないだろうか。
■もう一度まとめ
- ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。姿勢は低く、口調はソフトに、しかし切れ味は鋭く。
- まずは「経験的にあり得ない」ということを説明する。
- 長文の場合は全部をいちいち取りあげず、一番素朴な疑問を一つだけ提示する。
- 食い下がってくる場合は、相手にどんどんしゃべらせ、語るに落ちさせる。
- 冷酷になれ。
- 「武士の情け」を持とう。とどめを刺すのは最終手段。
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コメント
>たとえば「邪馬台国屋」 や「徐福屋」あるいは「字源屋」 などには手を焼いている研究者も多いことと拝察するが
他にも「南京屋」とでも呼ぶべき人たちがいますね。「南京大虐殺は嘘だ!」とか叫んでいる人たちのことですが。政治家なんかでもそういう人が結構いますけど。
そういう人たちを見ると、是非歴史研究者の前で発表して大恥かいてこい、とか思うのですが、本当にそんなことをされたら研究者の方々にも大迷惑になるんですね。
例えば、日本物理学会では、そのようなトンデモ屋が自説を発表できるセッションがあって(初日の早朝だったりとかしますが。)、一応「恥をかく」ことができるようになっていますが、歴史学会にはそのような場所はないのですか?
というか、歴史関係の学会というのはいっぱいあるみたいですが、ほとんどの歴史学者を網羅する全国規模の学会というのは、そもそもありますか?
投稿 seabass | 2007年5月 8日 (火) 09時40分
こんにちは、seabassさん。
>他にも「南京屋」とでも呼ぶべき人たちがいますね。
まあ歴史を学ぶ人が絡まれたら苦労する事は一緒だと言えば一緒ですが、そういう話にのめり込む「動機」の部分に「大きな違い」があるので、悩ましさの質も少し違うかなという気がしますね。古代史部分のトンデモな人というのは、或る意味で「純粋」である気もします。「邪馬台国」などでは、トンデモな人の周りに「おらが国さの観光開発」なんて、あまり純粋と言えない話も絡んでややこしくなったりもしましたけどね。
私なりに思うのに「歴史研究のトンデモ」と「自然科学のトンデモ」には一つの違いがありそうに思うわけです。もともと歴史研究なんていうのは、およそ実利の伴わない面がありまして、トンデモを主張する人その周りで信じちゃう人とかも、あまり「利権争い」の様相を呈さない気がします。まあ、TVのバラエティが取り上げるほどのトンデモ歴史考察になると、出版物が売れたり、観光開発に絡んだりとかはしそうですけどね。それに対して自然科学のトンデモというのは、逆に利権の伴わないトンデモの方が珍しくて、たいてい追いかけてみると健康食品とか健康器具とか浄水器とかの販売と絡む訳です。そういう意味では「南京屋」さん系統のトンデモさんは、現代のイデオロギー的な利権とのマッチングが大きいので、「自然科学系トンデモ」に近い様相はありそうです。
自然科学系のトンデモについては、そうやって「利権」の話がつきまとうので、逆に批判しやすい面もあります。「結局、浄水器販売の宣伝のための嘘っぱちですよ」という言い方ができるわけですね。それに対して朴斎さんの所に持ち込まれるトンデモは、利権が見えず純粋であるだけに、そういう「設けたいのだろ」みたいな決めつけができなくて困られる事も多いと思います。
投稿 柘植 | 2007年5月 8日 (火) 13時04分
>語るに落ちさせる
これ難しいです 私が悲観的なのは、ネットでの議論は、拙い例えで恐縮ですが、制限速度を守って走行するドライブのようなもので、いくら法的に、倫理的に正当であっても、後ろから煽られ、去り際に「流れ(空気)を読め」と嘲笑される空間だと考えるからです その光景を見、新参ドライバーがそれをデフォルトのルールだと刷り込んでしまう悪循環もあります 計測、計量の自然科学に比べ、人文の分野ではより顕著で、トンデモ自然科学を笑う人がトンデモ人類学、トンデモ歴史、トンデモ政治学に嬉々として群がっているのが現状かとも 「アカデミズムとの乖離」などと昔から指摘されてきましたが、ネット時代はむしろそれを加速したように思います 「左翼の衰退は大衆の心に届かぬお題目をくり返したからだ」とよく言われますが、それと同じ「理不尽な」非難を(理不尽じゃないとお考えならごめんなさい)、論壇マーケットが研究者へぶつける日がくるかもしれません 現実と乖離した科学など知的倒錯で、象牙の塔の尊大さを示すだけだと笑われるわけです むろん、その現実はとても個人的な、ひどく恣意的なものであるわけですが(例えば、車は一刻も早く目的地に人を運ぶ道具である、大陸・半島に覆いかぶされた位置にある日本列島、などなど)
長くなりすぎました どうもでした
投稿 スーザン | 2007年5月 8日 (火) 21時25分
seabass 様
コメントありがとうございます。
> 他にも「南京屋」とでも呼ぶべき人たちがいますね。「南京大虐殺は嘘だ!」とか叫んでいる人たちのことですが。政治家なんかでもそういう人が結構いますけど。
南京大虐殺に関しての私のスタンスは、以前のエントリー「誇張とウソ」のコメント
http://puzhai.cocolog-nifty.com/zazhi/2006/10/post_b81a.html#comment-12854191
で書いた通りですが、虐殺の事実を否定する人にも、事実からして「なかった」とする人、「正当な戦闘行為だから非難するのは当たらない」と主張する人などいろいろいます。「何を根拠に否定するのか」をまず見極めてからでなければ、その主張が検討に値するかどうかは決められないわけで(最終的にその主張を是とするかどうかは別問題です)、一概に「南京屋」と片付けてしまうわけにはいかないと思います。もちろん感情に任せてわめき散らすことが正義だと勘違いしているような手合いは、一顧だに値しないのであり、遠慮なく「南京屋」と呼んでいいのですが。
> 例えば、日本物理学会では、そのようなトンデモ屋が自説を発表できるセッションがあって(初日の早朝だったりとかしますが。)、一応「恥をかく」ことができるようになっていますが、歴史学会にはそのような場所はないのですか?
私は文学畑の人間ですので、歴史関係の学会については詳しくはわかりません。史学会・日本史研究会・歴史学研究会のHPを見た限りでは、入会は自由なようですが、大会では一見してトンデモと思われる発表はないようです。概要や予稿を事前に審査して、あまりにおかしなものははねてしまうシステムになっているのかも知れません(私の所属する日本中国学会ではそのようになっています)。
それ以前に、人文系のトンデモさんは学会を初めから視野に入れていないようです。そもそも学会とは何をする場所なのかもわかっていない人も多いのではないでしょうか。だから最初から自費出版の本を出したり、HPで「研究」を発表したり、学者に論文を送りつけたりというケースが多いのかも知れません。
投稿 朴斎 | 2007年5月 8日 (火) 23時44分
柘植 様
> 古代史部分のトンデモな人というのは、或る意味で「純粋」である気もします。「邪馬台国」などでは、トンデモな人の周りに「おらが国さの観光開発」なんて、あまり純粋と言えない話も絡んでややこしくなったりもしましたけどね。
歴史ではなく、語源や字源の「研究」に没頭するような人になると、もっと「純粋」なわけで、だからこそ迷惑ではあるけれども無下にしすぎるのも気の毒だという思いもあるわけです。他人を変えるのは難しいことですから、本人が気づいて変わってもらうより仕方がないのですが。
もっとも以前に文句を言ってきた「字源屋」が、ある偶然から、どうやら自分の研究で特許を申請していたらしいとわかって、唖然としたこともあります(もちろんそんな特許が通るはずはありません)。ご存じかも知れませんが、特許庁のHPで閲覧できる特許申請書類には、爆笑もののトンデモ申請もたくさん混じっています。審査官もまじめに拒絶理由を書くのに苦心していることでしょう。
> そういう意味では「南京屋」さん系統のトンデモさんは、現代のイデオロギー的な利権とのマッチングが大きいので、「自然科学系トンデモ」に近い様相はありそうです。
近現代史は政治と無縁ではいられませんから、そういう面は確かにありますね。それにこの種の人は、学界を動かすよりも世論を動かす方が、簡単な上に効果絶大だと気づいて、成功を収めたわけです。その点も「自然科学系トンデモ」と似ていますね。
> それに対して朴斎さんの所に持ち込まれるトンデモは、利権が見えず純粋であるだけに、そういう「設けたいのだろ」みたいな決めつけができなくて困られる事も多いと思います。
相手が純粋に「学説」を唱えている以上、動機で批判するのは当たりませんし、さりとて学術的に批判しようとしても話がかみ合わないので、最終的には門前払いしかなくなるわけです。悪気がないからかえって始末が悪いという点では、ストーカーと同じですね。
投稿 朴斎 | 2007年5月 9日 (水) 00時17分
スーザン 様
コメントありがとうございます。
> これ難しいです
ですから私も「高等戦術であり、こちらがケガをするおそれもある」と言っています。
> 私が悲観的なのは、ネットでの議論は、拙い例えで恐縮ですが、制限速度を守って走行するドライブのようなもので、いくら法的に、倫理的に正当であっても、後ろから煽られ、去り際に「流れ(空気)を読め」と嘲笑される空間だと考えるからです
学者がネット上に出てくるようになって、一番困るのがこれですね。ただ無法地帯と思われがちな「2ちゃんねる」でも、学問関係の板では意外と秩序が保たれていて、トンデモさんが入ってくると、たちまち袋だたきにあって追い出されることも多いようです(それでも私はのぞくだけで発言はしませんが)。
この例を見れば、少なくとも自分の場所では、議論のルールをあらかじめはっきり掲げておくといった対策を講じれば、秩序を保つことも不可能ではないように思います。
> トンデモ自然科学を笑う人がトンデモ人類学、トンデモ歴史、トンデモ政治学に嬉々として群がっているのが現状かとも
理系の立派な研究者でも、歴史系トンデモにあっさり騙されたり、自らトンデモ古代学を始めてしまうような人もいますが、それは単に教養が足りないだけであって、「自然科学だから」と決めてしまうわけにはいかないでしょう。
> 「アカデミズムとの乖離」などと昔から指摘されてきましたが、ネット時代はむしろそれを加速したように思います
それは確かにあるでしょうが、国全体が豊かになって、勉強しなくてもとりあえずは生きていけるようになったことも、人々が教養に目を向けなくなった要因として考えなければならないでしょう。
中国の歴史を見てみると、六朝時代は短命な王朝が興亡を繰り返す混乱の時代だったため、儒学が低迷して、オカルト的な要素を多分に含む神仙思想や仏教が流行しましたし、明代には経済が発展して庶民の力が強くなった上に、皇帝も学術や文化にあまり関心を示さなかったため、儒学や伝統的な詩文が低迷し、かわりに庶民の文芸である小説が栄えました。今の時代も明代とよく似ているように思います。
しかし明が滅んで清朝になると、支配者となった満州族は、多数派の漢族を手なづけるために学問を奨励し、学術も文化も大いに発展しました。今の時代の気風も、いつまでも続きはしないと私は見ています。再び学問が見直され、発展する時代が来る時には、我々はもう生きてはいないかも知れませんが、来たるべきその日のために、継承すべきものはしっかり伝えていく努力をやめてしまってはいけないと思います。
投稿 朴斎 | 2007年5月 9日 (水) 00時50分
こんにちは、朴斎さん。
>最終的には門前払いしかなくなるわけです。
私は、「専門家の持つ体系的専門知識による第一次スクリーニングは『ニベもないはねつけ』となって当然である」という事を言ったりします。これは、別に学者に限らないわけでして、農家の人に「その苗をもっと狭い間隔で植えたらもっと収穫が増えるのでは有りませんか?」とか、「トマトが儲かるなら、全ての畑で毎年トマトをつくると良いのではありませんか?」とか言ってみたらわかります。中には「根の張りがぶつかって大きくならないよ」とか「連作障害が出るよ」と言ってくれる人も居るかも知れませんが、忙しかったら「自分の畑でやってみな」と笑われておしまいの場合も多いのでは無いかと思うわけです。
大事なのは、そういう「はねつけ」に対して、「ああ、これは体系的専門知識による第一次スクリーニングなんだな」と分かる人を増やしていく事だと思うわけです。
>今の時代も明代とよく似ているように思います。
私は陽明学にかぶれて伝習録を読みふけっている面がありますが、王陽明の生きた明の時代に思いを巡らすと、やはり「似ている」と思います。儒教は科挙の試験に出ますから「勉強」はされる訳ですが、その勉強が受験勉強としての「文言の解釈」に追われ、儒教の根本哲学である「徳による統治」の精神は忘れ去られていたのでは無いかと思ったりします。
私は分析化学という「実利的」な分野で生きているからこそ感じる事として、多くの人が自然科学を「実利面」からしか捉えず、学問としての探究も「いずれ実利と結びつくからやるべきだ」となっている訳です。そういう実利的な捉え方が蔓延することで、学問の持つ「厳しさ」というのが忘れられ、例えば「門前払い」一つを見かけた時でも、そういう「厳しさがあるのが当然」と思えなくなっている面があるように思うわけです。
投稿 柘植 | 2007年5月 9日 (水) 11時17分
皆さん
利権が絡むトンデモは、案外と楽です。そのトンデモが利権につながらない、逆に邪魔になることを示せば、すぐ妥協します。
厄介なのは、純粋に正しいと信じている確信犯です。
トンデモの問題は、もともとラングミュアが提唱した病的科学が嚆矢だと思います。当時は、あまりに研究に専念しすぎて、自壊してしまう研究者の救済が目的だったと思います。
最近のトンデモ批判を見ていると、専門家が高見に立って、素人を値踏みしているような感もあります。「迷惑」、「いちいち相手していられない」といった表現です。本音は確かにそうでしょう。確信犯は、それを待っているところがあります。思う壺なのです。彼らの目的は、専門家の尊大さをあげつらうことも一つのようです。
文系のトンデモは、自然科学のように実験で決着をつけることが難しいので、正統派・異端派も本質的にトンデモに陥っている可能性はあります。そこを織り込んで研究していく必要があります。お互い、謙虚になれということでしょうか。
南京屋の件は、例えが悪いと思います。中国や韓国が、かなりトンデモに近いからです。これは、壮大な利権が絡んだ問題で、研究とは別次元の政治の問題でしょう。遊ぶのもいい加減にしろと言われかねない。
最後に、トンデモを擁護するつもりはないのですが、メンデルもトンデモで結果が良かったので怪我の功名だったようです。ラザフォード散乱の発見も、今から見ると実験そのものは典型的病的科学か、ラザフォードの洞察力(賭け)だったようです。
結局、トンデモの問題は、提唱者のアイデアではなく、洞察力の問題かと思います。洞察力のない提案者であれば、方法論や手法がいくら正しくても、トンデモとあまり変わらない。正しいだけに、厄介。確信犯のトンデモは、それに近いでしょう。厄介なのです。
対処法は、ラングミュア博士に立ち戻る必要があると思います。
投稿 吉原 | 2007年5月19日 (土) 06時38分
柘植 様、お返事が遅くなりました。
> 大事なのは、そういう「はねつけ」に対して、「ああ、これは体系的専門知識による第一次スクリーニングなんだな」と分かる人を増やしていく事だと思うわけです。
そう、まさにそれなのです。「見分け方」ページでも、職人や料理人になぞらえてそのことを書いていたのですが、農家のたとえもわかりやすくて良さそうですね。
> 儒教は科挙の試験に出ますから「勉強」はされる訳ですが、その勉強が受験勉強としての「文言の解釈」に追われ、儒教の根本哲学である「徳による統治」の精神は忘れ去られていたのでは無いかと思ったりします。
明代の科挙では朱子学が正統的な解釈とされていたので、「受験科目」に成り下がって魅力を失っていたのに対し、陽明学は儒学本来の根本である倫理に重点を置いて再解釈を加え、知識人だけではなく庶民にも広く支持されました。しかし唯心論的な面も多分に持っていたため、独善に陥って経書を学ぶことがおろそかになってしまうマイナス面もあったことは否定できません。現代の庶民ウケする安易な「学問もどき」の流行も、これと似ているような気もします。
> 学問の持つ「厳しさ」というのが忘れられ、例えば「門前払い」一つを見かけた時でも、そういう「厳しさがあるのが当然」と思えなくなっている面があるように思うわけです。
特に中国や日本の古典に関しては、漢字という誰でも読めそうな(実は訓練しなければ読めない)文字で書いてありますから、いっそう「厳しさ」を実感できないのではないかと思います。
投稿 朴斎 | 2007年5月20日 (日) 23時40分
吉原 様
コメントありがとうございます。
> 「迷惑」、「いちいち相手していられない」といった表現です。本音は確かにそうでしょう。確信犯は、それを待っているところがあります。思う壺なのです。彼らの目的は、専門家の尊大さをあげつらうことも一つのようです。
以前のエントリー「トンデモ原論」
http://puzhai.cocolog-nifty.com/zazhi/2006/11/post_7c05.html
はお読みでしょうか。私の基本的なスタンスはこちらに書いていますが、まともな議論が成り立たない相手とまじめに議論しても、ストーカーを相手に話し合うのと同じことで、全く「骨折り損のくたびれもうけ」なのです。こういう手合いは、下手に相手にすれば、かえって「専門家にも相手にしてもらえた」と喜ばせかねません。「尊大だ」と少しくらい騒がれたところで、少なくとも学界の趨勢は毛筋ほども動かないのですから、その方がずっとましなのです。
トンデモさん本人とまじめに議論するよりも、むしろ一般の人々に「なぜ無視するのか」を懇切丁寧に説き続ける方が、「学界の尊大さ」をあげつらう人々への対策としては有効ではないかと思います。
> 文系のトンデモは、自然科学のように実験で決着をつけることが難しいので、正統派・異端派も本質的にトンデモに陥っている可能性はあります。そこを織り込んで研究していく必要があります。お互い、謙虚になれということでしょうか。
「正統派・異端派」という言い方をされているのは、文系の「トンデモ」に対する誤解があるように思われます。「異端」というのは「少数意見ではあるが一応学問的に成り立っている説」であり、「トンデモ」とは「初歩的・根本的な誤りを含んでいて、ほぼ確実に成り立ち得ない説」のことです。「トンデモ」を批判するのは、それが「正統派でない」からではなく、「基本的な知識が欠如していたり、誤解していたりして最初から間違っている」からなのです。
たとえば"You make me happy."という文を、「これは英語ではない。『よう、負けめえ、法被』といういなせな江戸っ子のセリフをローマ字書きした日本語だ」と言われたらどうでしょうか。謙虚に検討するに値すると思いますか? 私が批判している「トンデモ」とは、これと五十歩百歩のレベルのものであって、たとえて言えば足し算や引き算のやり方もわかっていないのにフェルマーの大定理を「証明」して見せているようなものなのです。
文献を読むには一定の技術を習得しなければなりません。それをすっ飛ばしていきなり大それた「新説」を唱えるのがトンデモさんです。技術を習得した上でなら、少々変わった説を唱えても「異端」で済むのです。そこを間違えないようにしたいものです。
> 南京屋の件は、例えが悪いと思います。中国や韓国が、かなりトンデモに近いからです。これは、壮大な利権が絡んだ問題で、研究とは別次元の政治の問題でしょう。遊ぶのもいい加減にしろと言われかねない。
私も南京大虐殺否定論者をここに持ってくるのは良くないと思います。但しその理由は、単に自分の気に入らない考えに「トンデモ」とレッテルを貼るのでは、本来の「擬似科学」の意味からずれてしまうからです。(中国や韓国そのものに安易に「トンデモ」のレッテルを貼るのも、これと五十歩百歩であろうと思います。)
投稿 朴斎 | 2007年5月21日 (月) 00時33分
こんにちは、吉原さん。
>最後に、トンデモを擁護するつもりはないのですが、メンデルもトンデモで結果が良かったので怪我の功名だったようです。ラザフォード散乱の発見も、今から見ると実験そのものは典型的病的科学か、ラザフォードの洞察力(賭け)だったようです。
私は、「社会の健常な保守性」という事を言っています。
科学史の中には、「ユニークすぎて長い間(時には死後まで)省みられなかった発見」や「専門家なら『何かの間違い』と捨ててしまったかもしれないデーターをたまたまその分野の専門でないので、発表した事で見つかった現象」というのがあります。今でもあります。
ただし、理解して欲しいのは、そういうエピソードが残る何千倍もの「奇抜すぎて誰にも省みられない、やはり意味のない報告」とか「専門家が『何かの間違い』と捨ててしまった、やはり実際に間違えたデータ」というのがあるという事なんです。そして、それらはエピソードと成ることもなく消えていっているという事なんです。そういうエピソードのような事が「極めて希」であるから、エピソードとして残るということなんですね。エピソードに惹かれて、それらの「ゴミ」に全て目を向けるなら、人間の探求心はゴミの中に分散され、何千分の1という進み方になってしまう訳です。
私は分析技術の開発をしています。そして、或る意味で非常に傲慢でもあります。「この技術は私が開発しなければ、後30年くらい誰にも開発出来ないだろう」くらいのことを平然と口にします。そのくらいの自負心がなければ、無明の闇のような新技術の開発に自分の発想を頼りに切り込んでいけるものではありません。しかし、同時に、私の発言にある種の謙虚さが含まれている事も理解して欲しいわけです。30年もすれば、私が開発しなくても誰かが開発するという事も言っている訳です。そのような予測は、自分の挑戦する技術が「学問的真実」の延長にあることを確信しているからです。学問的真実である限り、いつかは明らかになると確信しているからです。だからといって、30年後の誰かに技術開発の功を譲る気はありませんけどね(笑)。
投稿 柘植 | 2007年5月23日 (水) 09時41分
南京大虐殺否定論者を持ち出したのは私ですので。
私の言い方が良くなかったかもしれませんが、私は別に個人的にそのような否定論が気に入らないから「トンデモ」とレッテルを貼って馬鹿にしようとしたのではありません。
専門家一人一人いろいろ主張は異なると思いますが、南京大虐殺があったことを否定している人はいないと思います。
それなのに、南京大虐殺を否定するということは、本来なら歴史学者たちとのシビアな対決を覚悟しないといけないと思います。歴史学者たちが築き上げた通説が完全に間違っているというのですから。
しかし現実には、一般向けの概説書すら、それも批判の対象としてすら読まずに、お気楽に通説を覆してしまう人もいっぱいいて、それなりの影響力を持っているわけです。政治家にもいますから。
(そういう箸にも棒にもかからない人たちを念頭に、「南京屋」という言葉を使いました。)
もちろん、そういう人たち一人一人に専門家がまじめに相対するのが困難であることは分かります。
物理学会では、トンデモ屋のためのセッションがあると前に書きました。もちろん、これは、物理学会は異端説を排除しないと言うためだけの、ただのアリバイ工作にすぎませんし、物理学者の大部分はそんなセッションに参加して、わざわざトンデモ屋に反論したりはしません。しかし、そのアリバイ工作の場所があるために、トンデモ屋さんの新学説に対しては「じゃあ、物理学会で発表したら?誰でも発表できるんだから。」とその覚悟を問うことができるわけです。
インターネットや国会で活躍する「現代のシュリーマン」に対しても同じような覚悟を問うことができれば、いわば「第0次スクリーニング」になるのではないかと思います。
(一対一の手紙のやりとりでは、「恥をかく」ことができず、十分覚悟を問うことができないと思います。)
今は誰でもインターネットで、「世紀の大発見」を発表できる世の中です。専門家が無視するまでもなく、はじめから専門家とは別の領域で活躍することを目指している人も多いと思います。
専門家の「通説」と素人の「新説」がお互い交わらずに、いわば仲良く棲み分けしている現状は、これで良いのかなとも思います。
投稿 seabass | 2007年5月23日 (水) 11時42分
柘植様
南京屋の例えがよくないというのは、南京大虐殺の件は科学の問題ではなく、政治の問題だからです。
中国や韓国がトンデモであるというのはきめつけだときめつけている人もいますが、トンデモになっいて一番苦しんでいるのは中国人であり朝鮮人なのです。
今の中国、韓国、北朝鮮は、建国のベースが連合国(戦勝国)という立場から始まっていますが、これがトンデモの始まりで、数十年たってもそれを清算できていない。清算できていれば、南京大虐殺などどうでもよい話になっています。彼らの正しい歴史では、こんなことは山のようにあったことですから。
ものごとは相対的に見なければわからない。彼らの正しい歴史からすると、南京大虐殺はあったとも言えるし、なかったとも言える。この程度のことは、大虐殺のうちなは入らないとも考えられます。そういう意見が中国人からも出つつあります。
南京大虐殺があったという主張は、彼らが戦勝国であったという世界にとってはどうでもよくなったことが、彼らにとってはどうでもよくない自分達の事情で政治的に利用しているところが強いのです。論理的に滅茶苦茶な南京屋は、彼らにとっては好都合とも言えます。
このように、政治的問題になっている南京大虐殺とランギュミュアの病的科学を同列に談じるのはどうかな、と思ったしだいです。
皆さんは、低レベルで力も無い人達とマジメに付き合いすぎている感じがします。それが、弱いものイジメだし傲慢だと感じられる原因ではないでしょうか。
文科省など結構、細かいところを突くとトンデモな匂いがします。
最近、新聞で、「高度な知的人材であるポスドクの就職不安感」といった記事を見ました。これっておかしいと思います。ポスドクが高度で知的人材であれば、引く手あまてで就職不安なんてあるはずがない。就職不安感があるというのは引く手あまてでない。引く手あまてでないというのは、高度で知的人材ではない、ということではないか。正確には、「高度で知的人材であるはすのポスドクの就職不安感」ではないか。ポスドクは高度で知的人材であるという思い込みから始まっています。
大学発ベンチャーという言葉もあります。リスクの低い大学とリスク最大のベンチャーとの組み合わせは面白い。大学を飛び出して、リスク最大のベンチャーに転進するのかと思うと、大学に腰掛けたままベンチャーごっこやるらしい。どうもリスクの意味がわかっていないようだ。
極めつけ、スーパーサイエンスハイスクール、超科学高校、マイナスイオンや血液型性格判定でもやるのだろうか。正確には、サイエンススーパーハイスクールではないか。
まずは、このあたりを相手にしたらどうでしょう。
最後に、大学発ベンチヤーですが、本当に大学を飛び出てベンチャーになるのは止めてくださいね。これって、トンデモ毛沢東の下放政策と同じです。大学の先生達は、世間に放り出して鍛えなおさないといけない連中ばかりですが、これをやると鍛えなおす必要のない人達が率先して実行し、ほとんどが討ち死にします。世間はそれほど厳しい。鍛えなおすべき連中は必死にしがみつくので、カスの拡大再生産になってしまう。
これは、余談でした。
投稿 吉原 | 2007年5月26日 (土) 06時20分
吉原様
余談になりますが。
>最近、新聞で、「高度な知的人材であるポスドクの就職不安感」といった記事を見ました。これっておかしいと思います。ポスドクが高度で知的人材であれば、引く手あまてで就職不安なんてあるはずがない。就職不安感があるというのは引く手あまてでない。引く手あまてでないというのは、高度で知的人材ではない、ということではないか。正確には、「高度で知的人材であるはすのポスドクの就職不安感」ではないか。ポスドクは高度で知的人材であるという思い込みから始まっています。
私も就職に不安を抱えるポスドクの一人ですが、私はともかくとして「ポスドクは高度で知的人材である」というのは思いこみじゃありません。
単に、大学院が供給する人材と企業がほしがる人材との間にミスマッチがあるからに過ぎません。実際、ヨーロッパやアメリカでは多くのポスドクが企業に採用されています。日本で引く手あまたでないのは、「ポスドクがアホだから」と単純に決め込めるものでもなくて、日本の企業風土とポスドク制度の相性の問題もあると思います。
最近では、「博士の多様なキャリアパス」ということが重要視されています。博士号を持っているからといって、研究職にこだわるのではなく、知的財産関係の仕事とか、今まで培った科学の知識を生かせる他の仕事へ転身したらどうか、という呼びかけがなされています。私はこれは良いことだと思っています。
ポスドクを何の見通しもなく急に増やしたせいで、ポスドク自身も、文科省もはじめはとまどったけど、ようやく適正な方向に動き始めたのだと、私は思っています。
>最後に、大学発ベンチヤーですが、本当に大学を飛び出てベンチャーになるのは止めてくださいね。これって、トンデモ毛沢東の下放政策と同じです。
これは全然違うと思います。むしろどこかの議員さんの、「ニートを徴農して叩き直す」とかいう主張の方が「トンデモ毛沢東の下放政策」に近いと思います。
私も闇雲にベンチャーを立ち上げるのには賛成しませんが、工学系の研究者たちは自己満足や学会での内輪受けのためではなくて、社会に本当に通用する技術を開発するのを究極の目的とするべきです。
自分の研究が社会において何の製品も産み出さない、あるいは製品技術の一つの基盤技術としてでも社会に貢献しないようでは、話にならないと思います。(実際はそういう人がほとんどですが。)
社会に通用するすごい技術を開発したのなら、何も企業に無料でくれてやるんじゃなくて、それを特許にして、既存の市場に殴り込みをかけてやるぐらいの気概を、工学系の研究者が持っても、そしてそれを実行してもそれは「トンデモ」だとは思いません。
マイクロソフトだって、元々は大学生が興したベンチャーではありませんか。
ただ、現在では「ベンチャーを興す」というのが自己目的化していて、本来商売をやる上で要求される冷徹なリスク計算や金を儲けようという欲望(商売やる上ではきわめて重要です)がおざなりになっていて、とにかく「いけいけ、どんどん」といった具合になっているとは思います。
以上余談でした。
投稿 seabass | 2007年5月27日 (日) 20時02分
吉原 様
柘植さんをご指名のようですが、私から先に失礼します。
> 南京屋の例えがよくないというのは、南京大虐殺の件は科学の問題ではなく、政治の問題だからです。
政治の問題であると同時に、人文科学や社会科学の問題でもあります。歴史学者や社会学者が「科学」として史料を掘り起こし、できうる限り史料に即して厳密な検証を行おうとしても、それを「政治化」しようとするあまたの人々がいる限り思うようにはいかない――というのが、南京虐殺を「研究」する上での一番の障害なのです。
> ものごとは相対的に見なければわからない。彼らの正しい歴史からすると、南京大虐殺はあったとも言えるし、なかったとも言える。この程度のことは、大虐殺のうちなは入らないとも考えられます。そういう意見が中国人からも出つつあります。
だったらなおさら中国に「トンデモ」のレッテル張りをしてはまずいのでは? 自分の言っていることの矛盾にお気づきですか? これでは日本に味方してくれそうな中国人まで怒らせることになりますよ。
これ以上この話題を続ければ、それこそ「南京屋」が群がってくるおそれもありますので、この辺でやめておきます。
> 皆さんは、低レベルで力も無い人達とマジメに付き合いすぎている感じがします。それが、弱いものイジメだし傲慢だと感じられる原因ではないでしょうか。
「迷惑だから無視する」と言えば「傲慢だ、謙虚に相手しろ」。
「まじめに批判する」と言えば「弱いものいじめ」。
いったいどうしてほしいのですか? 結局何が何でも「大学は傲慢、アカデミズムは傲慢」という結論に持って行きたいだけではないかという疑惑を禁じ得ません。
それに本文でも主張していることですが、私はトンデモさん本人とま じ め に つ き 合 う つ も り は あ り ま せ ん。こういう人々の主張する「一見もっともらしく、実は低レベルな与太話」にあっさり引っかかるような人々に対して
「新奇な説に飛びつく前に、ちょっと立ち止まってみましょう」
と呼びかける行動を起こしただけであって、「トンデモ撲滅運動」をしたいわけではありません。
「低レベルで力のない」投資の素人が、怪しげな「投資」話に飛びついて騙される事件は枚挙にいとまがありません。そのような人々に「こんな特徴のある儲け話は確実に詐欺ですから騙されないようにしましょう」と呼びかけるのが、「弱いものいじめで傲慢」だと言うことにはならないでしょう。それと同じことをやろうとしているだけです。
> 文科省など結構、細かいところを突くとトンデモな匂いがします。
このように「トンデモ」という言葉を見境なく使うことには、私は賛成しません。
> 極めつけ、スーパーサイエンスハイスクール、超科学高校、マイナスイオンや血液型性格判定でもやるのだろうか。正確には、サイエンススーパーハイスクールではないか。
> まずは、このあたりを相手にしたらどうでしょう。
文科省の政策に不満がおありなら、抗議すればいいではありませんか。それくらい自分でおやりになって下さい。第一これこそ政 治 の 問 題であって、もはや擬似科学の範疇を越えています。「南京虐殺は政治問題だから擬似科学のたとえにはよくない」などと言っておきながら、一方で文科省の政 策 を擬似科学の議論に持ち込もうとするのは矛盾していませんか?
それに「まずは、このあたりを相手にしたらどうでしょう。」
これはホームレスの救援活動をしている人々に対して、「そんな焼け石に水の活動より先に、日本の国益にとってもっと重要な北朝鮮拉致被害者の救援をすることから始めてはどうか」と言うようなものですよ。「それぞれが能力や専門に応じてやれることをやる」のが社会的活動の基本だと私は思いますが。
吉原様が文科省や大学に相当ルサンチマンをお持ちなのはよくわかりましたが、それに駆られるあまり無関係な話まで議論を拡散させた挙句、支離滅裂になってしまっているような感じがするのは私だけでしょうか。
単にアカデミズムへの不満をぶちまけたいだけでしたら、どうぞご自分の場所でお願いします。「議論のための議論」にもこれ以上おつきあいするつもりはございませんのであしからず。
投稿 朴斎 | 2007年5月27日 (日) 23時18分