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2007年7月 8日 (日)

「科学には夢も感動もない」とお嘆きの貴兄に

 科学は「神」も「霊魂」も語ってくれない。未知の超能力もことごとく否定される。観測や実験の結果でしかものを考えず、 物質文明に凝り固まった科学者の言うことなんか、いったい何が面白いのだろう。それにひきかえ「スピリチュアリスト」 の語る話は何と夢と希望に満ちあふれていることか……。

 こんな風にお嘆きの皆様に、心を込めてお贈りしたい詩がある。


  火星が出てゐる    高村光太郎

火星が出てゐる。

要するにどうすればいいか、といふ問は、
折角たどった思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以って、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高くあげて、
この寝静まった暗い駒込台の真上に光る
あの大きな、まつかな星を見るがいい。

火星が出てゐる。

木枯らしが皂角子(さいかち)の実をからから鳴らす。
犬がさかって狂奔する。
落葉をふんで
藪を出れば
崖。

火星が出てゐる。

おれは知らない、
人間が何をせねばならないかを。
おれは知らない、
人間が何を得ようとすべきかを。
おれは思ふ、
人間が天然の一片であり得る事を。
おれは感ずる、
人間が無に等しい故に大である事を。
ああ、おれは身ぶるひする、
無に等しい事のたのもしさよ。
無をさへ滅した
必然の瀰漫(びまん)よ。

火星が出てゐる。

天がうしろに廻転する。
無数の遠い世界が登つて来る。
おれはもう昔の詩人のやうに、
天使のまたたきをその中に見ない。
おれはただ聞く、
深いエエテルの波のやうなものを。
さうしてただ、
世界が止め度なく美しい。
見知らぬものだらけな無気味な美が
ひしひしとおれに迫る。

火星が出てゐる。


 何とも武骨で理屈っぽい、それでいて美しい詩である。

 この詩が書かれたのは1926(昭和元)年の冬という。この頃には寺田寅彦や長岡半太郎らが活躍し、 日本の科学水準は世界に肩を並べるほどになっていた。この詩が生まれる4年前の1922(大正11)年には、 アインシュタインが来日して国民挙げての大歓迎を受け、日本中に相対論ブーム、科学ブームがわき起こっていた。

 古えの詩人たちがうたってきた、神々の住む天界を、科学はあっさりと消し去ってしまった。 これからも科学は詩にうたわれた美しい世界をどんどん塗り替えていくことだろう。そのような時代に詩人はいったいどうあるべきなのか。 高村光太郎が「要するにどうすればいいか」と自問し続けたのは、そんな問いだったに違いない。

 そして彼が出した答えは、科学的態度に生き、 科学に支配される世界の美しさをうたい上げることであった。「火星」という、 それまでの詩人が好んでうたった花鳥風月にはほど遠い、無機質的な星。「無限大」「第一の力」「深いエエテル(注)の波」といった科学的概念。広大な自然界に比べれば無に等しい人間が、 科学によって解明していく自然界の秩序のゆるぎなさ。それらの中に彼は「止め度ない美しさ」を見出したのである。これを「科学の夢と感動」と呼ばずして何としようか。 「昔の詩人のやうに、天使のまたたきをその中に見」ることをやめたからといって、彼が人間の血も涙も捨てた悪魔になったなどと、 誰が言えようか。

 神々の物語は夢想の世界として美しい。科学の秩序もまた現実の世界として十分に美しい。そして光太郎にとって科学への信頼は、 即ち人間への信頼でもあった。「お前の心を更にゆすぶり返す為に」この詩にみなぎっている人間への限りない愛情と信頼とを、 じっくり味わってみよう。

 (注・「エーテル(エエテル)」とはもともとアリストテレスが 「地球以外の天体を構成する元素」として想定したものであるが、19世紀の電磁波の発見とともに、 空間に充満していて電磁波を伝える仮想物質の名前となった。ところがエーテルの実在はどうしても証明できなかったばかりか、 それを否定するような実験結果が報告されるに至り、1905年に特殊相対性理論が発表されるに及んで、 エーテルではなく空間そのものが電磁波の媒質であると考えられるようになった。高村光太郎がもしそのことを知っていたのであれば、 「夜空の空間そのものが伝える星々の光波」を詩的に表現する言葉として、あえて「エエテル」を用いたものと思われる。)

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