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2007年12月

2007年12月 5日 (水)

辞書使いの辞書知らず その2

■知っているようで知らない漢和辞典の使い方

 加えて辞書の引き方そのものについても、誤解している人が多いことにも触れなければならない。特に漢和辞典は、なじみのある辞書でありながら、使い方が十分理解されているとは言い難い面がある。

 例えば子供に名前をつける際に、漢和辞典を引く人は多い。しかし使い方を間違えるととんだ失敗につながることがある。例えば「央」 という字は昔から人名に普通に使われているし、今でも米大リーグで松井稼頭央選手が活躍しているから、あやかって「央」を名前に入れたいという人もいることであろう。

 では漢和辞典で「央」を引いてみよう。今手元にある角川『新字源』を見ると、「なりたち」の項に

 もと、大(人が両手を広げた形=筆者注)首かせをはめたさまにより、わざわい、 ひいて、つきる意を表す。殃の原字。借りて「なかば」の意に用いる。

と出ている。これだけを読むと、「ええっ、『央』ってそんなに縁起の悪い字なの?!」 とうろたえて、この字を名前に入れるのを断念する人もいるかもしれない。しかし心配は無用である。

 そもそも漢字の意味には「原義」「派生義」 がある。原義とはその文字が本来持っていた意味であり、派生義とは原義から転じたり(「転義」という)、原義を推し広げたりして(「引伸義」という)生じた意味である。「山」「木」「人」などのように原義が今でもそのまま用いられている字もあれば、原義が忘れられて派生義だけが用いられている字もある。「央」の場合、 「わざわい」というのは原義であり、しかも既に忘れられた原義である。それが証拠に、字義の説明のところには「わざわい」という語釈は載っていないし、「央」を「わざわい」の意味で用いている熟語も載っていない。だから「央」という字を見て「わざわい」の意味に受け取る人は、現代においては皆無と言ってよく、堂々と人名に用いて何ら差し支えはないのである。もし忘れられた原義にこだわるなら、 「幸」という字を人名に使うのももってのほかである。「幸」はもともと手錠を描いた象形文字だという説もあるのだから(「刑罰を辛くも逃れる」ことから「さいわい」という派生義が生じたとされる)。

 ちなみに「借りて「なかば」の意に用いる」というのは、「仮借」(かしゃ)といって、その文字の音を借りて同音の別の言葉の意味をあらわす、当て字のような用法のことである。本来は無関係であった「なかば、真ん中」という意味が「央」の主要な意味となり、原義の「わざわい」 の意味では、死に関する意味をあらわす「歹」を加えた「殃」 を用いるようになったわけである。(なお「つきる」という意味は「未央(びおう)」という言葉に残っている。「未だ央(つ)きず」、ひいて「夜がまだ明けない」という意味であり、漢代の宮殿の名にもなった。)

■「辞書学」が必要な時代

 しかしこうしたことがわからなかったからと言って、辞書を引く人だけを責めるわけにもいかない。漢字の原義・派生義・仮借などは大学(それもごく一部の専攻)でしか教えられないことであるし、中学・高校の国語の先生でさえ、十分わかっていない人も多いのではないかと思われる。それにもかかわらず、たいていの漢和辞典は原義や派生義が一目でわかるような書き方にはなっていない。辞書の最初に載っている凡例で、たとえば「原義を最初に掲げ、続いて派生義を載せる」といった方針は一応説明されているものの、辞書を引くのに凡例をいちいち丹念に読む人は、そう滅多にいるものではなかろう。しかも小型の漢和辞典では、字義の説明でも訓読みや意味を挙げるだけで、その用例が挙げられていないものが多いから、漢文を読む際にそれらを機械的に代入して、奇訳珍訳を作り上げる人が後を絶たないのである。一つの漢和辞典に「漢文を翻訳する」「日常の日本語の漢字を調べる」という二つの機能を無理に詰め込んだ結果、帯に短し襷に長しの辞書が出来上がってしまい、利用者の混乱に拍車をかけているのではないかと思う。

 それでも学校でちゃんとそのことを教えられる機会があった人はまだ幸せである。「辞書使いの辞書知らず」のままで、ある日ふと古典や漢文を自力で読もうと一念発起してしまった人は、たいてい目も当てられない結果になる。甚だしきに至っては、辞書の凡例をせっかく読んでも、それを誤読しておよそ見当外れな使い方をし、「誰も考えつかない新解釈」を編み出して得意がる人さえ出てくる始末である。

 (ついでに言えば、外山氏にかみついた中学生のように、 自分に理解できないことは即「間違っている」「役に立たない」と断定するのも、自称「研究家」が陥りがちな過ちである。理解できなければ理解できるまで勉強するのが筋で、多くの人が勉強してわかっていることを、わかろうともせずに間違いだと決めつけるのは、外山氏の言うとおり不遜であり、思い違いも甚だしい。こう言うと「態度と学説の正しさは別だ」などと訳のわからないことを言い出す人が必ず出てくるが、「先人の仕事に対して不遜な態度をとる人にまともな仕事はできない」というのは、どんな業界でも大方の場合に当てはまる経験則であり、世間知である。学問とて決して例外ではない。)

 もう一度言うが、文を読むのに辞書は必要である。しかし辞書を引きさえすれば文が読めるのではない。だから文章読みのプロになるには、大学や大学院で学ばなければならないのである。

 昔なら大学における辞書の専門的な使い方は、見よう見まねで覚えるものであった。私も体系的に教わった記憶はないが、「辞書は語釈よりも用例を見ろ」とだけは厳しく言われたものである。大学院に行ってまで積極的に学ぼうとする人ならそれで良いかもしれないが、普通の学部生にはそこまで期待する方が酷というものであろう。辞書の意義や役割、使い方を体系立てて教える「辞書学」の講義や演習を、学部の早い段階で行うことを考えるべき時がもう来ているのかもしれない。特に国語科の教職課程で「辞書学」をきっちり教育しておかなかったら、「辞書使いの辞書知らず」の先生がさらに増えて、生徒たちもますます辞書をきっちり使いこなせなくなっていく懸念がある。その先に待っているのは一億総「漢字使いの漢字知らず」「文章書きの文章読めず」の時代だと言っては大げさすぎるだろうか。

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辞書使いの辞書知らず その1

■国語教科書にかみついた中学生

 外山滋比古『「読み」の整理学』(ちくま文庫)という本を、 たまたま書店で見かけて手に取ってみた。以前に外山氏の『古典論』を読んで、 その平易にして斬新な文にすっかり引きつけられてしまったことがあるので、今度はどんな内容かと期待して開いてみたら、 初っぱなからとんでもない話が目に飛び込んできた。

 その話というのはこうである。中学校3年用の国語教科書に載っていた外山氏の文章の、

「ことばとそれがあらわすものごととの間には何ら必然的な関係はない」

というくだりに対して、「3年2組クラス一同」から

「この文章、間違っています。直してください」

という苦情の手紙が届いた。もともと中学生には少し難しいかと思われる文であったが、教科書会社からのたっての要望で、 できるだけわかりやすく手を入れた上で掲載を承諾した文である。かりにも検定を通った教科書で、 中学生にもわかる誤りがあるとも考えにくいし、意味がわからないのならわかるよう説明してほしいと言うのが筋で、居丈高に「直せ」 などと言うのも子供らしくない。しかも中学生たちがこの文を「誤り」と断定した根拠は次のようなものであった。

 ……彼らの手紙によると、辞書で一語一語をひいて意味をたしかめたが、どうしても正しいとは考えられない。 「直してください」と書いている。辞書をひけば正しい意味がとれると思うのは、中学生だからしかたがないが、 文章を読む訓練を受けていないからである。 辞書は単語の意味はある程度教えてくれるけれども、文章の意味のある部分は範囲外である、 そういうこともわからずに辞書を使うのは辞書使いの辞書知らずである。生徒がそうであっても責めることはできない。 先生だってわからない人がゴロゴロしている。…… (強調は筆者)

 かくて不愉快になった氏は、怒って反論すればかえって大人げないと考えて、それを無視することにした。 ところがその後また手紙が来て、どうして返事をくれないのか、返事をしないのはできないからだろう、といった調子だったので、 氏もさすがに腹を立てて次のような内容の返事をした。

 諸君はこの文章が読めないのだ。読めなくてもしかたがないが、わからないのは誤りだとするのは、 たいへんな思い違いである。 不遜である。
 「ことばとそれがあらわすものごととの間には何ら必然的な関係はない」ということがわからなかったら、一語一語、 字引きを引いたりするのではなく、この文章をひっくりかえして、ことばとそれがあらわすものごととの間に必然的関係、 つまり切っても切れぬ関係がある、としたらどうなるのかを考えなくてはならない。もしこのひっくりかえした文章が正しければ、 さきの文は誤りになる。
 もしことばとそれがあらわすものごとが切っても切れぬ関係になるとすれば、イヌということばはあの小動物と同じになる。 つまりイヌはどこの国でもイヌと呼ばれなくてはならない。実際には、イギリスのイヌはドッグ、ドイツのイヌはフントになる。 つまりイヌということばイヌという動物の関係は任意の約束である。
 こんな理屈を中学生にわからなくてはいけないというつもりはない。わからなくてもそういうものであると頭に入れればよい。 それが読むということだ。 (強調は筆者)

……中学生たちはその後さすがに何も言ってこなかった。

■辞書さえあれば文章は読める?

 いかがだろうか。氏の言う「辞書使いの辞書知らず」には思い当たる節のある人も多いことであろう。私自身も「『辞書に○○と書いてある』というこじつけ」という一文を自分のHP上に書いたことがある。
 
 中学や高校では国語や英語の時間に「わからない言葉や文字は辞書を引きなさい」としつこく言われる。実際、中学・高校レベルの文なら、 辞書を引いてその語釈をもとの文に代入していけば、何とか意味は取れるものが多い。それに慣れてしまえば、 「辞書さえあればどんな文でも読める」と思い込んでしまうのも無理からぬことである。

 しかし辞書の語釈というものは、ある文脈の中で考えられる意味をいくつか並べたものにすぎないことを忘れてはならない。 言葉はそれ単独で意味が決まるのではなく、文脈の中で初めてその意味が決まる。例えば

くるま

という言葉は、これだけを見ても何を指すのか特定できない。車輪なのか、大八車なのか、自転車なのか、自動車なのか、 列車の車両なのか、それとも機械の弾み車なのか、はたまたラジコンカーなのか……。

 ところが

くるまを取り付ける。

という文なら、それは恐らく車輪か弾み車のことであるし、

馬が穀物をどっさり積んだくるまを引いている。

という文なら、それはほぼ間違いなく荷車のことである。文の中でなら、どんな場面でどんな様子かがわかるから、それに応じて「くるま」 の意味も自ずと決まってくる。「くるま」「取り付ける」「馬」「穀物」「どっさり」といった単語を一つ一つ辞書で引いて、 その語釈を代入してみたとしても、それだけではこれらの文は正確に理解できないのであって、文全体としてどんな場面なのかを考えなければならないのである。

 では今度は

「くるまを呼んでくれ。」

という会話で考えてみよう。これも辞書で「くるま」を引いて語釈を代入し、「自動車を呼んでくれ」と訳しただけでは30点である。 もしこの文が現代のことを書いた文で、飲み屋や旅館の玄関先で普通の庶民が発した言葉なら、この「くるま」は恐らくタクシーであろうし、 高級料亭で政治家や大企業の社長が発した言葉なら、黒塗りのハイヤーか、あるいは運転手つきの公用車や自家用車かも知れない。 またこの文が明治時代のことを書いた文だとしたら、この「くるま」は恐らく人力車である。 たとえ寸分たがわず同じ単語を用いた会話であっても、それが発せられた背景によって意味は大きく変わってしまうのであり、それを読み取ることは、 辞書に頼るだけでできることではない。 外山氏の言う「文章を読む訓練」とは、まさに「文脈の中での意味」を読み取る訓練なのである。

■辞書を引くのは「必要」ではあっても「十分」ではない

 現代日本語の通常の文でなら、我々は意識せずに文脈を読み取ろうとしている。しかし外山氏の例のように、 ちょっと難しい文になったり、あるいは一目見ただけでは読めない古典文や外国語文になったりすると、 途端に辞書を振り回して奇訳珍訳をこしらえる人が出てくる。特に大学レベルの文章は、 語釈の代入だけではとても歯が立たないものばかりであり、学生たちは 「辞書を引いただけでは文章は読めない」ということを肌で知ることになるのである。

 そこで辞書の語釈の後ろに付いている用例を検討して、自分の調べようとしている文にふさわしいか、 それで全体の文脈が通るかどうかじっくり考えよと諭すわけであるが、 文脈を読み取る訓練というのは学部のたかだか二、三年程度でできるものではない。 多くの文を読んでいろいろな種類の文のパターンを知らなければならないし、文脈の背景となる歴史や文化の知識も必要になるからである。 大学院を修了してもやっとこさ半人前で、私もまだまだ一人前とは言い難い。定年を過ぎた老碩学でさえ 「自分がどれほどのことを知り得たか心もとない」などと(むろん謙遜ではあるが)語るくらいである。 文を読むとはそれほどまでに奥の深い作業なのである。しかしそのすべては体得できなくても、せめて

文章を読むのに辞書を引くのは必要条件ではあっても、十分条件ではない。

ということをきちんと理解できたなら、大学で学んだ甲斐もあろうというものである。

(以下その2へ続く)

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