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2007年12月 5日 (水)

辞書使いの辞書知らず その1

■国語教科書にかみついた中学生

 外山滋比古『「読み」の整理学』(ちくま文庫)という本を、 たまたま書店で見かけて手に取ってみた。以前に外山氏の『古典論』を読んで、 その平易にして斬新な文にすっかり引きつけられてしまったことがあるので、今度はどんな内容かと期待して開いてみたら、 初っぱなからとんでもない話が目に飛び込んできた。

 その話というのはこうである。中学校3年用の国語教科書に載っていた外山氏の文章の、

「ことばとそれがあらわすものごととの間には何ら必然的な関係はない」

というくだりに対して、「3年2組クラス一同」から

「この文章、間違っています。直してください」

という苦情の手紙が届いた。もともと中学生には少し難しいかと思われる文であったが、教科書会社からのたっての要望で、 できるだけわかりやすく手を入れた上で掲載を承諾した文である。かりにも検定を通った教科書で、 中学生にもわかる誤りがあるとも考えにくいし、意味がわからないのならわかるよう説明してほしいと言うのが筋で、居丈高に「直せ」 などと言うのも子供らしくない。しかも中学生たちがこの文を「誤り」と断定した根拠は次のようなものであった。

 ……彼らの手紙によると、辞書で一語一語をひいて意味をたしかめたが、どうしても正しいとは考えられない。 「直してください」と書いている。辞書をひけば正しい意味がとれると思うのは、中学生だからしかたがないが、 文章を読む訓練を受けていないからである。 辞書は単語の意味はある程度教えてくれるけれども、文章の意味のある部分は範囲外である、 そういうこともわからずに辞書を使うのは辞書使いの辞書知らずである。生徒がそうであっても責めることはできない。 先生だってわからない人がゴロゴロしている。…… (強調は筆者)

 かくて不愉快になった氏は、怒って反論すればかえって大人げないと考えて、それを無視することにした。 ところがその後また手紙が来て、どうして返事をくれないのか、返事をしないのはできないからだろう、といった調子だったので、 氏もさすがに腹を立てて次のような内容の返事をした。

 諸君はこの文章が読めないのだ。読めなくてもしかたがないが、わからないのは誤りだとするのは、 たいへんな思い違いである。 不遜である。
 「ことばとそれがあらわすものごととの間には何ら必然的な関係はない」ということがわからなかったら、一語一語、 字引きを引いたりするのではなく、この文章をひっくりかえして、ことばとそれがあらわすものごととの間に必然的関係、 つまり切っても切れぬ関係がある、としたらどうなるのかを考えなくてはならない。もしこのひっくりかえした文章が正しければ、 さきの文は誤りになる。
 もしことばとそれがあらわすものごとが切っても切れぬ関係になるとすれば、イヌということばはあの小動物と同じになる。 つまりイヌはどこの国でもイヌと呼ばれなくてはならない。実際には、イギリスのイヌはドッグ、ドイツのイヌはフントになる。 つまりイヌということばイヌという動物の関係は任意の約束である。
 こんな理屈を中学生にわからなくてはいけないというつもりはない。わからなくてもそういうものであると頭に入れればよい。 それが読むということだ。 (強調は筆者)

……中学生たちはその後さすがに何も言ってこなかった。

■辞書さえあれば文章は読める?

 いかがだろうか。氏の言う「辞書使いの辞書知らず」には思い当たる節のある人も多いことであろう。私自身も「『辞書に○○と書いてある』というこじつけ」という一文を自分のHP上に書いたことがある。
 
 中学や高校では国語や英語の時間に「わからない言葉や文字は辞書を引きなさい」としつこく言われる。実際、中学・高校レベルの文なら、 辞書を引いてその語釈をもとの文に代入していけば、何とか意味は取れるものが多い。それに慣れてしまえば、 「辞書さえあればどんな文でも読める」と思い込んでしまうのも無理からぬことである。

 しかし辞書の語釈というものは、ある文脈の中で考えられる意味をいくつか並べたものにすぎないことを忘れてはならない。 言葉はそれ単独で意味が決まるのではなく、文脈の中で初めてその意味が決まる。例えば

くるま

という言葉は、これだけを見ても何を指すのか特定できない。車輪なのか、大八車なのか、自転車なのか、自動車なのか、 列車の車両なのか、それとも機械の弾み車なのか、はたまたラジコンカーなのか……。

 ところが

くるまを取り付ける。

という文なら、それは恐らく車輪か弾み車のことであるし、

馬が穀物をどっさり積んだくるまを引いている。

という文なら、それはほぼ間違いなく荷車のことである。文の中でなら、どんな場面でどんな様子かがわかるから、それに応じて「くるま」 の意味も自ずと決まってくる。「くるま」「取り付ける」「馬」「穀物」「どっさり」といった単語を一つ一つ辞書で引いて、 その語釈を代入してみたとしても、それだけではこれらの文は正確に理解できないのであって、文全体としてどんな場面なのかを考えなければならないのである。

 では今度は

「くるまを呼んでくれ。」

という会話で考えてみよう。これも辞書で「くるま」を引いて語釈を代入し、「自動車を呼んでくれ」と訳しただけでは30点である。 もしこの文が現代のことを書いた文で、飲み屋や旅館の玄関先で普通の庶民が発した言葉なら、この「くるま」は恐らくタクシーであろうし、 高級料亭で政治家や大企業の社長が発した言葉なら、黒塗りのハイヤーか、あるいは運転手つきの公用車や自家用車かも知れない。 またこの文が明治時代のことを書いた文だとしたら、この「くるま」は恐らく人力車である。 たとえ寸分たがわず同じ単語を用いた会話であっても、それが発せられた背景によって意味は大きく変わってしまうのであり、それを読み取ることは、 辞書に頼るだけでできることではない。 外山氏の言う「文章を読む訓練」とは、まさに「文脈の中での意味」を読み取る訓練なのである。

■辞書を引くのは「必要」ではあっても「十分」ではない

 現代日本語の通常の文でなら、我々は意識せずに文脈を読み取ろうとしている。しかし外山氏の例のように、 ちょっと難しい文になったり、あるいは一目見ただけでは読めない古典文や外国語文になったりすると、 途端に辞書を振り回して奇訳珍訳をこしらえる人が出てくる。特に大学レベルの文章は、 語釈の代入だけではとても歯が立たないものばかりであり、学生たちは 「辞書を引いただけでは文章は読めない」ということを肌で知ることになるのである。

 そこで辞書の語釈の後ろに付いている用例を検討して、自分の調べようとしている文にふさわしいか、 それで全体の文脈が通るかどうかじっくり考えよと諭すわけであるが、 文脈を読み取る訓練というのは学部のたかだか二、三年程度でできるものではない。 多くの文を読んでいろいろな種類の文のパターンを知らなければならないし、文脈の背景となる歴史や文化の知識も必要になるからである。 大学院を修了してもやっとこさ半人前で、私もまだまだ一人前とは言い難い。定年を過ぎた老碩学でさえ 「自分がどれほどのことを知り得たか心もとない」などと(むろん謙遜ではあるが)語るくらいである。 文を読むとはそれほどまでに奥の深い作業なのである。しかしそのすべては体得できなくても、せめて

文章を読むのに辞書を引くのは必要条件ではあっても、十分条件ではない。

ということをきちんと理解できたなら、大学で学んだ甲斐もあろうというものである。

(以下その2へ続く)

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コメント

朴斎先生、お久しぶりです。高校現場はセンター試験直前で慌ただしくなってきました。

さて、今回紹介された中学生の例などは、中学高校の教員からすればよく分かります。その上、最近の生徒は(特に古文や漢文で新しい表現を教えたときなどに)「こんな表現は日本語に存在しない」ということを平気で言います。普通は「そんな表現聞いたことない」とか「知らない」と言うところなのでしょうが(しかも、その言い方の裏には「自分にはまだ知らないことがたくさんある」という一種の謙虚さのようなものも含まれていたのでしょうが)、本当に最近の生徒は自分の見聞きしたことのある、狭い語彙の世界しか信じていないのだなと戦慄してしまいます(本校だけなんでしょうね…)。自我や批判力の乏しい若者が増えて、「学生」らしい人間が減っている現状と関係があるような気がします。

また、辞書の件で言うと、辞書を引くだけまだマシ、という現実もあります。普通英語や古典の授業といえば、テキストを和訳したり口語訳してから授業に臨むというのが常識であり、わからないことばがあれば辞書を引いて、訳を自分で考えるというのが普通でした。しかし、最近は辞書で引いた語釈だけをただつなぎ合わせる生徒はかなり意識が高く、学力が高い生徒であると扱われてしまう現実もあります。何しろ質は置いておくとしても自力で「予習」ができているのですから、かなりレベルは上の方にいます。何も準備らしい準備をせず、授業時に教師が訳を言うのを待って、それを丸写しするだけという生徒のほうが多いのです。しかもその日本語が理解できないと、その生徒たちは前の段落のような反応をします。ほんの少しではありますがテキストと「格闘」した経験のある当方としては怒りを通り越して、一種の悲しさ、むなしさを感じます。「せめて辞書くらい引いて来いよ」と言いたくなります。このことも最近レベル低下著しい本校だけに特有のことならいいのですが。

文脈上、外山さんに手紙を書いてきた生徒諸君に同情の余地はありませんが、辞書を引くだけで意識が高いと評価されてしまう今の教育現場の低迷ぶりをも考えねばならないのでしょう。

投稿 guoyuehua | 2008年1月 9日 (水) 19時22分

guoyuehua 様

 お久しぶりです。二重投稿はちゃんと直しておきましたのでご心配なく。センター試験は受験する側も教える側も大変ですが、試験を実施する側も大変です。

 >最近の生徒は(特に古文や漢文で新しい表現を教えたときなどに)「こんな表現は日本語に存在しない」ということを平気で言います。

 速水敏彦『他人を見下す若者たち』などでも指摘されていますが、「非を認めたら負け」「他人よりバカだったら負け」と思っている若者が増えているようです。軽々に断定はできませんが、本当は「知らない」のだとわかっていても、「『知らない』と言ったら負け」という心理が、「そんな言葉は存在しない」という開き直りに生徒たちを走らせている可能性も考えられるでしょう。

 加えて最近は「自分の直感だけを信じよう」という思考法が、おかしな形で蔓延しているようで、芸能人の中にもこれに同調してブログなどでファンに呼びかけたりする人がいるようです。これにかぶれた生徒が、自分の「直感」でわからない一切のものを拒否してしまうことも考えられます。

 >しかし、最近は辞書で引いた語釈だけをただつなぎ合わせる生徒はかなり意識が高く、学力が高い生徒であると扱われてしまう現実もあります。

 中学や高校の段階では、辞書の語釈に頼って意味の通る和訳ができれば十分だと私も思います。外山氏も中学生に「文章を読む訓練」ができていることを求めていたわけではなく、「辞書を引いてわからなかった」からいきなり「間違いだ」と飛躍してしまったことを問題視しただけです。もし「わかるよう教えてほしい」と言ってきたのなら、外山氏も喜んで説明したことでしょう。

 まったく予習をしない学生の多さは、大学の語学でも事情は同じです。初級の教科書ならその場で即興でも何とか答えらしい答えはできますから、仕方のないことかも知れません。さすがに専門になると即興では手も足も出ませんから、一応の予習はやって来ていますが。

 結局のところ、辞書を引くことの意義や必要性をどう教えれば効果的かという問題に帰着しそうですね(中学・高校の場合と大学の場合とでは、もちろん目的も方法も違ってきますが)。私も名案があるわけではなく、試行錯誤を繰り返している状態です。まあ頑張りましょう。

投稿 朴斎 | 2008年1月10日 (木) 00時21分

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