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2008年2月

2008年2月 6日 (水)

詩人の吐く言葉に二度と同じ意味はない。

 大学院在学中には授業のノートや日頃のアイデアメモに京大型カードを愛用していた。博士課程にいた頃にパソコンを購入してから、 だんだんカードを用いなくなったが、死蔵状態になっていたカードを先日久し振りに繰ってみたら、こんな記録が出てきた。

 詩人の吐く言葉は行く川の流れのようなもの。ある一回限りの状況で吐かれた言葉は、翌日また同じように吐くことはできず、 明日の水が今日の水と同じでないのと同様のこと。詩を読むときに辞書に固定された意味にこだわると、このことを忘れてしまう。 (山本和義談)  

 カードには「95.9.18」と日付がある。山本和義先生は当時南山大学教授で、 蘇東坡をはじめとする宋代の詩を専門にしておられたが、何かの用事で京大を訪ねた折りに、 研究室に集まった学生に非公式の講義をされたことがあったと記憶している。このカードはその時取ったものであろう。

 この談話は前のエントリー「辞書使いの辞書知らず」 で書いたことと極めて関連が深い。詩を読もうと思えば、踏まえている典故を調べたりするのに辞書の助けを借りなければならないことが多いが、 辞書に杓子定規に頼りすぎれば、かえって詩を読む妨げにもなってしまう。 そもそも言葉の意味には一定の幅があるものであり、詩人はその「幅」を最大限に生かして、 これまでになかった表現を生み出し、詩語としての新たな意味用法を加えるのである。これはもちろん辞書だけでわかることではない。

 何も漢詩に限らず、現代の歌謡曲やJポップの歌詞でも同じである。古い例で恐縮だが、今思いついたのはさだまさしの「第三者」 (アルバム『うつろひ』所収)という歌の冒頭に出てくる

 死んだコーヒー

という歌詞である。これも「死ぬ」という単語を辞書で引いて、その語釈を眺めているだけでは意味を取り違えてしまう。 しかしコーヒーは冷めると香りがなくなってまずくなるという事実に思い至れば、これが「冷めたコーヒー」をしゃれて言った表現だと気づく。 そしてこの歌は喫茶店での男女の別れの場面を歌ったものであり、のっけから「死んだ」という言葉を用いたのも、 死なんとしている恋というテーマを暗示していると考えられるのである。

 つまりこの歌詞を正確に理解するには、単語一つ一つにこだわるのではなく、歌全体の文脈を考えなければならないし、 コーヒーや喫茶店という飲食文化についての理解もなければならないのである。 辞書を振り回すだけでは文学作品は読めないということは、これでおわかりいただけるであろう。

 それにしても何という偶然であろうか。外山滋比古『読みの整理学』に触発されて浮かんだとばかり思っていたことが、 実は10年以上も前の講義で聞いていたことだったと、今になってわかるとは。あるいはすぐれた講義というものは、 忘れたと思っても案外忘れずに記憶の底に残っていて、十分時間をかけて熟成されてから、 ふとしたきっかけでまたよみがえってくるものなのかも知れない。

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