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2009年2月15日 (日)

「生悟り」の怖さ

 海外ツアーの添乗員にとって一番厄介な客は、西も東もわからない初めての客ではなく、ある程度海外旅行の経験がある客だという。なぜなら彼らはもうその国をわかったつもりになっているので、添乗員の言うことを聞かずに勝手な行動を取り、結果とんでもない事故を起こして大迷惑をもたらすからである。初めての客の方が、勝手がわからないだけにかえって素直に言うことを聞いてくれるのである。

 たとえばこんな例がある。香港ツアーに参加した客の中に、香港が初めてではない数人のグループがいて、彼らは「自分たちはもう勝手がわかっている。今日はマカオに日帰りしてくるぞ」と言って、添乗員が止めるのも聞かずに勝手に出かけてしまった。ところが待てど暮らせど帰ってこない。翌日やっと連絡が入って言うには、「澳門(マカオ)」と間違えて、30時間かかる中国行き(恐らく福建省の「厦門(アモイ)」行きであろう)の船に乗ってしまい、中国のビザがないため上陸できず(当時は中国へ入国するには必ずビザが必要だった)強制送還される羽目になったとのことであった(『地球の歩き方 旅のトラブル&安全対策inアジア』1993年、pp146)。生兵法で大けがをする見本である。

 中高年登山で事故が多いのも、なまじ若い頃に登山の経験があるだけに、山をわかったつもりになっているのに加えて、体力の衰えも考慮せずに無理をしがちだからという。

 何をやるにしても、ある程度経験を積んでわかってくれば楽しくなる。しかしそこが落とし穴でもある。少しわかっただけなのに、すべて知り尽くしたつもりになってしまうと、そこは地獄の一丁目なのである。

 学問も同じで、ある程度学ぶとだんだん楽しくなってくる。それは結構なことではあるが、人が知らないことを自分は学んでわかるようになったという優越感にはまってしまうと危ない。それは「自分だけがこんなすばらしい知識を得た。まだ知らない人にもどんどん教えてやらないと」という心理へと容易に転化してしまうのである。その結果興味がない人にまで無理やり「御進講」を聞かせようとしたり、我こそは一番の物知りだとばかりに振る舞おうとしたりして、結局人々にうっとうしがられることになる。するとますます「真理を知ろうともしない下司どもめ」と周囲を軽蔑し憎悪するようになり、さらにうっとうしがられ浮いてしまう……という悪循環に陥りかねない。

 何を隠そう私自身も若い頃はそういうところがあった。だから今になってそのような人を見かけるたびに、何ともいたたまれない気持ちになる。過日も(といってももう1年以上過ぎてしまったが)ある席で、そうと思しき人に出くわしてしまったことがある。詳細を記すのは遠慮するが、ひたすら人の言葉尻をとらえては突っかかり、自分の方がよほどものを知っている、お前らは何もわかってない、と言わんばかりに、満座が白けきっているのも構わず口角泡を飛ばしまくっていた。この種の人は相手をすれば不毛なケンカになるのは必定だから、「はいはい、あんたが大将、大将」と(口には出さずに)受け流すに限るが、受け流したとて決して後味のいいものではない。

 こういう時に思い出されるのは、仏教で言う「生悟り」という言葉である。少しばかり修行して、それで仏法を悟り得たかのように錯覚している状態のことである。仏門に入った初めの頃には誰もが通る道であり、その段階を乗り越えて、初めて本当の修行が始まるのだという。もし「生悟り」から抜け出せなければ、「せっかく悟り得た真理を誰も知ろうとしない」と、ますます傲慢になって世を恨むようになってしまうのだから、これでは何のために俗塵を逃れて出家したのかわからない。誠にもって恐ろしいものである。

 学問を志して大学院に入れば、満を持して用意した発表を先輩や先生にさんざん叩きのめされるという経験を繰り返すことになる。学会発表でデビューを果たしても、虫の居所が悪い老大家に捕まってしまうと、大勢の聴衆の前で容赦なく叱りとばされる羽目になることもある。研究者となっても、論文を発表して大反響を呼ぶことなどそう滅多にあることではないから、いやが応でも「自分がどれほどのものか」ということを思い知らされるのである。そういう経験を積んでこなかった自称研究家は、「生悟り」から抜け出せなくなる危険性が数倍高いことを心した方が安全であろうと思う。「そういうお前もまだまだ生悟りだ」と顔をしかめている老大家の先生方もきっとおられることだろうから、本来なら他人のことなどとやかく言えた義理ではないけれども、あえて言い訳させていただけば、「生悟りかもしれない」という恐れを常に抱いているだけでも、根拠のない自信に満ちあふれているよりはいくらかましであろうと思う。

 「偉大な先人の業績には敬意を払え」などと言うと、自称「研究家」はすぐに鼻白むが、それは「生悟り」に陥らないための世間知だと考えれば、とかく権威に反発しがちな人にも納得がいくのではないだろうか。何もすべて唯々諾々と従えというのではなく、自分だけが知り得た、悟り得たという思い上がりを戒めるということである。

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