学問もどき・トンデモ

2009年2月18日 (水)

「ゴミの山を調べる暇など無いのだ」

 大学院生向けの論文指南の名著・酒井聡樹『これから論文を書く若者のために』(共立出版、 2002年)に、こんな一節がある。

 ではなぜ(自費出版やHP上の論文は)研究成果として認められないのか。それは、 価値の無い論文が氾濫することを防ぐためである。誰でも好き勝手に論文を発表できるのならば、 中身のない論文や独りよがりの論文が世界中にあふれてしまう。これでは、価値のある論文を見つけ出すのが大変である。時間は有限、 貴重な時間を費やして、ゴミの山を調べる暇など無いのだ。
 学術雑誌に掲載されていること。それは、その学術雑誌の編集部が、 その論文の価値を保証しているということであり、研究成果として認めているということである。 私たちは、編集部のお墨付きを信用して、限られた読書時間の一部をその論文を読むことにあてる。もちろん、 学術雑誌に掲載されている論文すべてが、本当に価値のあるものとは限らない。真の価値判断は、読者自身が行うべきものだ。 本審査の前の予備選考を学術雑誌の編集部に任せているといった方がよい。(pp.14-15。赤字の強調は筆者、 黒字の強調は原文による。) 

 「ゴミの山とは何だ! 大学はこんな偏見を学生に植え付けているのか!」と怒りに震えている自称「研究家」もいることであろう。しかし残念ながら、これが大方の研究者の認識なのである。酒井氏や私に怒っても仕方がない。

 ここで立場を逆にして考えてみよう。たとえばあなたがルイ・ヴィトンのバッグや財布を買いたいとする。どこへ買いに行くだろうか。

  1.  ルイ・ヴィトンの正規店
  2.  道ばたの露店

 ほとんどの人は1を選ぶであろう。正規店で売っているのはまず間違いなく本物であり、値は張ってもそれを上回る安心が得られるからである。

 2を選んだ人は「ひょっとしたら掘り出し物を安く買えるかも知れない」と期待しているのだろうが、骨折り損のくたびれもうけに加えて、安物買いの銭失いになる可能性大である。どこにあるともわからない露店を探し回るのも時間の無駄だし、運良く見つかったとしても、店の素性もわからなければ、売っているものが本物かどうかも極めて怪しいのだから。恋人に「露店で見つけた掘り出し物だよ」と言ってヴィトンをプレゼントするのは、ほぼ間違いなくふられることになるのでやめた方がよい。

 ではあなたが質のよい論文を探そうとすればどこを見ればよいだろうか。もうおわかりであろう。学術雑誌、または定評のある学術出版社から出版された専門書を見るのが、最も確実にして効率のよい方法だということを。自費出版本やHPに注目してくれ、信用してくれというのは、あたかも露店で売っているバッグの山から本物のヴィトンを探してくれと要求するようなものなのである。そんなことをしなくても、ヴィトンの正規店へ行けば確実かつ効率よく本物を買えるのだから、本物をほしがる人がそちらへ行くのは理の当然であろう。

 ところで酒井氏も「学術雑誌に掲載されている論文すべてが、本当に価値のあるものとは限らない。 真の価値判断は、読者自身が行うべきものだ」と書いている。学術雑誌や専門書を見ても、ババをつかんでしまうことも稀にはある。すると勢いづいて「だから自費出版本もちゃんと見ろと言っているのだ」と言う慌て者が必ず出てくるが、残念ながらそういう理屈は成り立たない。たとえババをつかむごくわずかな危険性があっても、学術出版でよい論文を探す方が、自費出版本でよい論文を探すよりも時間を無駄にしないことには変わりないのだから。

 専門家も常に正しいとは限らない。酒井氏は謙虚にそれを認めている(もちろん私も認めている)。しかしそれは 「素人が常に正しい」ことを意味するのではない。素人も常に正しいとは限らないし、しかも専門家より間違う確率は高い。「専門バカにもなれないのはただのバカだ」という数学者・小平邦彦の名セリフもある。これを忘れてしまうと、酒井氏のこの文の趣旨も我田引水に読み誤ってしまうことになるだろう。

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2009年2月15日 (日)

「生悟り」の怖さ

 海外ツアーの添乗員にとって一番厄介な客は、西も東もわからない初めての客ではなく、ある程度海外旅行の経験がある客だという。なぜなら彼らはもうその国をわかったつもりになっているので、添乗員の言うことを聞かずに勝手な行動を取り、結果とんでもない事故を起こして大迷惑をもたらすからである。初めての客の方が、勝手がわからないだけにかえって素直に言うことを聞いてくれるのである。

 たとえばこんな例がある。香港ツアーに参加した客の中に、香港が初めてではない数人のグループがいて、彼らは「自分たちはもう勝手がわかっている。今日はマカオに日帰りしてくるぞ」と言って、添乗員が止めるのも聞かずに勝手に出かけてしまった。ところが待てど暮らせど帰ってこない。翌日やっと連絡が入って言うには、「澳門(マカオ)」と間違えて、30時間かかる中国行き(恐らく福建省の「厦門(アモイ)」行きであろう)の船に乗ってしまい、中国のビザがないため上陸できず(当時は中国へ入国するには必ずビザが必要だった)強制送還される羽目になったとのことであった(『地球の歩き方 旅のトラブル&安全対策inアジア』1993年、pp146)。生兵法で大けがをする見本である。

 中高年登山で事故が多いのも、なまじ若い頃に登山の経験があるだけに、山をわかったつもりになっているのに加えて、体力の衰えも考慮せずに無理をしがちだからという。

 何をやるにしても、ある程度経験を積んでわかってくれば楽しくなる。しかしそこが落とし穴でもある。少しわかっただけなのに、すべて知り尽くしたつもりになってしまうと、そこは地獄の一丁目なのである。

 学問も同じで、ある程度学ぶとだんだん楽しくなってくる。それは結構なことではあるが、人が知らないことを自分は学んでわかるようになったという優越感にはまってしまうと危ない。それは「自分だけがこんなすばらしい知識を得た。まだ知らない人にもどんどん教えてやらないと」という心理へと容易に転化してしまうのである。その結果興味がない人にまで無理やり「御進講」を聞かせようとしたり、我こそは一番の物知りだとばかりに振る舞おうとしたりして、結局人々にうっとうしがられることになる。するとますます「真理を知ろうともしない下司どもめ」と周囲を軽蔑し憎悪するようになり、さらにうっとうしがられ浮いてしまう……という悪循環に陥りかねない。

 何を隠そう私自身も若い頃はそういうところがあった。だから今になってそのような人を見かけるたびに、何ともいたたまれない気持ちになる。過日も(といってももう1年以上過ぎてしまったが)ある席で、そうと思しき人に出くわしてしまったことがある。詳細を記すのは遠慮するが、ひたすら人の言葉尻をとらえては突っかかり、自分の方がよほどものを知っている、お前らは何もわかってない、と言わんばかりに、満座が白けきっているのも構わず口角泡を飛ばしまくっていた。この種の人は相手をすれば不毛なケンカになるのは必定だから、「はいはい、あんたが大将、大将」と(口には出さずに)受け流すに限るが、受け流したとて決して後味のいいものではない。

 こういう時に思い出されるのは、仏教で言う「生悟り」という言葉である。少しばかり修行して、それで仏法を悟り得たかのように錯覚している状態のことである。仏門に入った初めの頃には誰もが通る道であり、その段階を乗り越えて、初めて本当の修行が始まるのだという。もし「生悟り」から抜け出せなければ、「せっかく悟り得た真理を誰も知ろうとしない」と、ますます傲慢になって世を恨むようになってしまうのだから、これでは何のために俗塵を逃れて出家したのかわからない。誠にもって恐ろしいものである。

 学問を志して大学院に入れば、満を持して用意した発表を先輩や先生にさんざん叩きのめされるという経験を繰り返すことになる。学会発表でデビューを果たしても、虫の居所が悪い老大家に捕まってしまうと、大勢の聴衆の前で容赦なく叱りとばされる羽目になることもある。研究者となっても、論文を発表して大反響を呼ぶことなどそう滅多にあることではないから、いやが応でも「自分がどれほどのものか」ということを思い知らされるのである。そういう経験を積んでこなかった自称研究家は、「生悟り」から抜け出せなくなる危険性が数倍高いことを心した方が安全であろうと思う。「そういうお前もまだまだ生悟りだ」と顔をしかめている老大家の先生方もきっとおられることだろうから、本来なら他人のことなどとやかく言えた義理ではないけれども、あえて言い訳させていただけば、「生悟りかもしれない」という恐れを常に抱いているだけでも、根拠のない自信に満ちあふれているよりはいくらかましであろうと思う。

 「偉大な先人の業績には敬意を払え」などと言うと、自称「研究家」はすぐに鼻白むが、それは「生悟り」に陥らないための世間知だと考えれば、とかく権威に反発しがちな人にも納得がいくのではないだろうか。何もすべて唯々諾々と従えというのではなく、自分だけが知り得た、悟り得たという思い上がりを戒めるということである。

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2008年3月28日 (金)

どちらが不寛容か

 自称「研究家」や、その説を支持する人がよく言うセリフに、「学者は新説に対して不寛容だ」 というのがある。自分の「既得権益」を侵されたくないから、スクラムを組んで「新規参入」を妨げているのだと、最近はやりの「規制緩和」派の言い分をそのまま学界にも適用しようとするわけである。

 研究者の書く論文を全く読んだことがない人なら、こう言われるときっと納得して同情を感じることであろう。「そうだ、ちょっとくらい話を聞いてあげてもいいじゃないか、新しい試みを認めてあげてもいいじゃないか」と。

 そう思っている人がもし

研究者の行う研究は、他者に対しても寛容である。

と聞いたら、「え? 何かの間違いじゃないの?」と声を上げるに違いない。

 文学研究の場合を中心に話を進めるが、学術論文では通常、最初にそれまでの先行研究を挙げて、その問題点を指摘してから、自分の考えへと移るスタイルを採る。しかしそこをよく読むと、問題の指摘はするけれども、全面否定はせず、「どの説も一理あるが、また100パーセント同意できるものでもない」というスタンスで書かれているのが普通である。最後まで読んでみても、 「この説以外にはあり得ない、他の説は全部間違い」などという叙述にはまずお目にかからないであろう。

 つまり新説を発表する際には、自分と見解を異にする説に対しても、それが長い年月の淘汰を経て確乎たるものになった基礎的知識に立脚している限り(ここが大事)、 全面否定して排撃するという態度はとらない。 文学研究の場合なら「そのようにも読めるけれども、こういう読み方もできるのではないか、こちらの読み方の方がよりすっきりするのではないか」という風に、 他説の存在も認めた上で、ケルンの上に新たな石を一つ積むように、自分の説をそっと積み上げるのである。

 そしてすべての人が自説を受け入れてくれるよう要求するようなこともしない。おとなしく読者の判断にゆだね、それで反応が思わしくなければ、自分の至らなさを認めて、次に向かってさらに研鑽を積めばよい。もし論争になっても、決着がつくまで相手を徹底的に論破しようとは考えず、言うべきことを言ったらいい加減なところで打ち切って、評価はやはり読者の判断にゆだねる。学界での渡世とはそういうものである。

 対して自称「研究家」の「研究」はどうだろうか。彼らの「研究」の多くは、基礎的知識を知らないか、無視しているか、敵視している。 そうしない限り成り立たない説だからである。故に基礎的知識を否定し、それに立脚しているすべての研究を否定し、それらを支持する学界を否定し……という具合に、自説以外のすべてを否定することに懸命になる。 他説の存在を寛容に認めている限り、最後は自己否定にしか行き着かないからである。

 しかも彼らは自説が思うように支持されないと、途端に所かまわず出没しては、支持を訴えて騒ぎ出すから始末に負えない。某巨大掲示板の学問板をのぞいてみれば、支持しない人を片っ端からやっつけようと暴れている人が必ず見つかるものである。恬淡と百年後に知己を待てばいいものを、どうしてこうもせっかちなのだろうか。

 いかに寛容な学者といえども、最初から他者を否定しておいて、その他者に「受け入れてくれ」と迫るような虫のいい人にまで寛容になれるはずがないのは、あまりにも当然の道理である。「お前の母ちゃんデーベーソ、でも仲良くしてね」などと言う人にわざわざ仲良くしようと思う聖人君子もしくはお人好しが、この世にいるとは思えないのだが。

 「寛容だと言うなら、文句言わず好きなようにやらせておけばいいじゃないか」と言う人もいることであろう。 全くもってその通りである。大半の学者は自称「研究家」に対しては、やめろとも何とも言わない。 ただ相手にしていないだけのことである。研究者の発表する研究であっても、つまらなければ誰も何も言ってくれない。労力をかけて批判するに値する研究でなければ、批判さえしてもらえないのである。

 新しい研究を発表する自由は誰にもある。しかし発表しさえすれば 「注目される権利」「称賛される権利」が当然についてくるわけではない。 この当たり前のことがわかっていないと、鼻つまみ者への道をまっしぐらになってしまうのであろう。

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そんなら、客でいたまえよ。――あるいは「学界とオーケストラ」――

 学界に身を置く研究者は、論文を送りつけてくる自称「研究家」には、多くの場合無視するか、よくても儀礼的な挨拶、あるいは皮肉やほめ殺しで体よくあしらうことが多い。これに対して不平不満を抱き、学界への怨み言をたらたら吐き続ける自称「研究家」も数多くいる。

 しかし学界と一般の人の関係は、実はオーケストラの団員と客の関係に似ている。

 オーケストラの演奏会では、舞台と客席とは完全に分離されている。演奏するのは舞台の上の団員だけで、客はせいぜい拍手を送るか、曲によっては手拍子をするくらいである。お座敷や盆踊りのように、客も歌い手も一緒になって騒ぐということはまずない。

 たとえどんなにすばらしい演奏の腕前を持っていたとしても、客でいる限り、勝手に舞台に上がって演奏することは許されない。 そんなことをすれば演奏会は台無しになる。そもそもオーケストラとはそれぞれの楽器が個性を発揮しながらも、 全体としての調和が取れた演奏をするものである。どんなに上手な人でも、オーケストラの中で好き勝手に目立とうとしたら、曲はめちゃめちゃになってしまう。だからオーケストラは一定のレベル以上の団員だけで演奏するのであって、誰でも好き勝手に飛び入りすることは許されないのである。

 客は曲がすばらしければ盛大な拍手を送るし、つまらなければ席を立って帰るのも、次から聴きに来ないのも自由である。しかしどれだけ下手な演奏でも、「何だ何だ、俺様の演奏の方がよっぽどうまいぜ!」と舞台に乱入し、団員の楽器を奪い取って演奏する自由というのはない。そんなことをすれば間違いなく外へつまみ出されることになる。それを見て「この人だっていい演奏してるのに、団員も頭ごなしに決めつけずにもっと謙虚になってはどうか」などと言う客が果たしているだろうか。

 どうしてもオーケストラの舞台に立ちたいのなら、厳しい練習を積んで団員になるか、それがいやなら自分で団を組んで演奏会を開くかどちらかになる。しかし後者の場合、ウィーン・フィルやN響と同じような注目を浴びることは当然無理である。せいぜい地元住民の間で評判になる程度の、分相応の注目で満足するしかない。


 学界もオーケストラと同じで、一人一人の研究者はそれぞれ独創性のある研究をするけれども、学界全体としてはこれまで蓄積された学識との整合性がちゃんと取れているのである。その調和を乱すような研究、たとえば先行研究を全く無視したり、基礎知識を踏まえないままで、自分一人だけで思いついたことを好き放題開陳するような研究は、よい研究とは認められない。

 もし研究者の発表する研究が気に入らなければ、その人の本を読まないようにするのも、批判するのも自由である。しかし自分が代わって「舞台」に立とうとすれば、学界からも、学問をわかっている「客」からも反発を買うのは当然である。学界が外部からの参入を容易に許さないのは、オーケストラと同じように、一定のレベルを保つことで、学問全体の調和を乱さないようにするためである。その代わり「客」を満足させられるだけのレベルの研究を提供できるよう、日々研鑽を積んでいるわけである。

 学問で「舞台」に立ちたいという場合も、オーケストラの場合と同じことがいえる。「客」でいる限り、ブーイングを浴びせようと、本を地面に叩きつけようと、その行為自体を禁止することはできない。しかし「舞台」に勝手に乱入しようとする迷惑な「客」は、有無を言わさず閉め出さざるを得ないのである。研究者は自分の研究が学界全体に資するかどうかを考えて仕事をするが、自称「研究家」は自分だけが目立って賞讚されることしか頭にない。 自分一人のために学問そのものがめちゃめちゃになることなど想像もつかないのであろう。少なくとも彼らの言動を観察する限り、そうとしか受け取れない。こんないい了見の持ち主を喜んで「団員」に迎える「オーケストラ」などあろうはずはないし、そう考えれば「学者は素人の研究も頭ごなしに否定せずにもっと謙虚になったらどうか」などというのがどれほどナンセンスかはもう明らかであろう。謙虚や傲慢云々の問題ではなく、単に「ダメなものはダメ」 と言っているにすぎないのである。

 どうしても「舞台」に上がりたいのなら、プロの研究者と同様に厳しい(独りよがりではない)研鑽を積むか、それがいやなら自分で学会を組織し、自分で雑誌を発行して「舞台」をこしらえることである。但し本物の学会と同じように注目されることなど当然期待しない方がよい。家族や友人知人に「すごい」と言ってもらえる程度の、分相応の注目で満足することである。楽をしていい思いをできる道など世の中にはない。


 土田世紀の漫画「俺節」に、確かこんな場面があった(ずいぶん前に読んだきりなので、細部は違っているかも知れない)。デビューを目前にしたロックバンドを率いるボーカルの羽田が、場末の酒場で偶然耳にした流し演歌にしびれてしまい、バンドを解散して頭を丸め、演歌の大御所・北野波平(誰がモデルかは言わずもがな)に弟子入りを志願した。波平の前で羽田に発声をさせてみせたボイストレーナーは「ジャンルは違っても歌は歌だ」と絶讚し、レコード会社のスタッフも「ひとつ育ててみませんか?」と勧めるが、波平は「お断りだね」と一蹴、演歌を歌おうとする動機に問題ありだと言う。抗弁する羽田に波平は

「そんなら、客でいたまえよ。
歌っているより、歌を眺めていたまえよ。」

と言い、羽田が思わず罵声を浴びせようとしたその刹那、波平は顔をずいっと近づけて一喝、

「声なら負けねえぞ!」

 このシーンの北野波平は実にかっこいい。私もこのセリフには素直に打ちのめされた。

 私は大御所でも何でもないから(よって私にケンカを売って言い負かしたところで、それで学界の風向きががらりと変わって自分になびいてくれるということは期待できない)、波平のまねなどおこがましいことこの上ないが、それは承知でやはり言いたい。「そんなに学界が不満なら、客のままで好き放題言ってたらどうです? 自分で研究をするより、研究を眺めている方がよっぽど気楽ですよ」と。


(追記)検索結果やリンク先から直接来られた方へお願い

 この記事のみを読んで趣旨を誤解される方がいらっしゃいます。直接来られた方は次の記事も併せてお読みいただければ幸いです。

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2008年3月 9日 (日)

ディルバートに「と」登場

 IT企業を舞台に、無能な上司に怠け者の社員たちが織り成す滑稽な人間模様を、皮肉たっぷりに活写した漫画「ディルバート」 。『ニューズウィーク日本版』にも3コマ版が連載されているが、こちらのサイトにも8コマ版が連載されている。

 紹介するのが遅れたが、こちらの回「ボクなんか、生き返ったんだぞ!」には、何としても人に勝ちたいがために、「誰も唱えないトンデモな、もとい画期的なこと」を声高に唱え、 結局鼻つまみ者になっていく男「トッパー」(「トップになりたがる人」の意味であろう) が登場する。

 得意がっているのは本人だけ、周囲はひたすら嵐が過ぎ去ってくれることだけを望んでいる……。こういうはた迷惑な「と」はバカにされても仕方がないし、たとえ百万歩譲って彼の言うことに一抹の真理があったとしても、誰も耳を貸さないであろう。

 そしてトッパーの与太話につき合わされる二人が、彼にあえて反論しようとしないのもミソである。この手の人には「言うだけ無駄」「まじめに反論しても骨折り損」だからであることは言うまでもない。

 同じ「と」であっても、もう少し世慣れた人なら、上手な訴え方の「ツボ」 をちゃんと心得ていて、それなりに支持を得るものである。正攻法で勝負にならないからと、新奇なことをやって人に勝とうとしても、マーケティングを研究する努力を怠れば、ますます墓穴を掘ってしまう。 結局世の中そうそう楽していい思いはできないということであろう。

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2007年5月27日 (日)

紹介: 「水からの伝言」に言語学の立場から反論する

まずはまじめな紹介

 既にいろいろなところで紹介されているが、言語学を専門とする方からの「水からの伝言」批判が現れた。「思索の海」というブログの記事 「水からの伝言」に言語学の立場から反論する である。

 詳細は当該記事を御覧いただきたいが、著者は

 音声や文字で表現される「言語の形」と、その「意味内容」は、 恣意的に結びついている

(たとえば「ワンワンと鳴く獣」という実体=意味内容には、「イヌ」「ドッグ」「コウ」「ケ」などの音声や「犬」「dog」「狗」 「개」などの文字を好きなように結びつけることができるのであり、 どれが結びつくのかは何の必然性もないことである。)

という言語学の知見に基づいて、

 ある言語表現の、その物理的性質(形)のみと特定の評価を結びつけることは原理的に不可能

なのであり、

 「意味」を受け取るためにはそれがどのレベルのものであれ、 受け手側が実に様々な情報、知識を持っていることが必須

と結論づけている。即ち、物質に過ぎない「水」が、「言語の形」と「意味内容」を結びつける膨大な情報をあらかじめ蓄えているのでなければ、 「どんな言語でもその価値を判断して結晶の形で表現する」ということは到底あり得ないのである。

 この辺は私も(そして多くの批判者も)漠然と気づいていながらなかなかうまく言語化できなかったことであるが、やはり餅は餅屋である。私の以前の記事で言い足りなかったことはほぼ尽くしてくれていると思う。

ここからはお遊び

 ところで、当該記事の

 水は万能の学習者で、実は人間と接するたびにその言語に関する情報を学習している、あるいは、 水はなんだかしらないけれども全ての言語に関する情報を備えている、というような道を選択しなければならないでしょう。

というくだりを読んで、ふとあるものが頭に浮かんだ。

 「全ての言語に関する情報を備えている」ものといえば、「あれ」は?

 食べるとどんな言葉でも理解でき、話せるようになるという「あれ」 は?

 「あれ」 の主成分は9割以上が「水分」 だったのでは……。

 その「あれ」とは、そう、(大山のぶ代の声で)「翻訳コンニャク」!

 コンニャクの成分の9割以上は水分で、その水は「水伝」の言うことが本当なら「全ての言語に関する情報を備えている」ことになるのである。だとしたらドラえもんの道具「翻訳コンニャク」もおとぎ話ではなくなってくるではないか。水に音声情報や視覚情報をうまく入力し、そこから翻訳された音声情報や視覚情報をうまく取り出し、脳にそれを作用させる仕組みさえ作ってやれば、「翻訳コンニャク」の完成である。ドラえもんが使ったものは、きっと「コンニャク」の水分以外の部分に、そういう仕組みをそなえた微小なチップが埋め込んであるのに違いない。

 もし「翻訳コンニャク」が実現できたら……。私の専門である中国文学をはじめ、外国に関する専門の研究者や学生にはこの上ない福音であろう。これまではまず「外国語の文献を正確に読む」ことから始めなければならず、それに大きな労力を割かれてきた。だが「翻訳コンニャク」を食べれば、もうそんな苦労は必要ない。本来の目的である作品解釈や史料解釈の方に全力を注げばよいのである。研究が飛躍的に発展することは間違いない。

 それ以前に、「翻訳コンニャク」さえあれば、あらゆる学校で外国語教育が不要になる。そうなればどれほど莫大なコストが浮くか見当もつかない。国からの予算を削りに削られ青息吐息の弱小大学もいっぺんに息を吹き返すであろうし、外国人の子弟の日本語教育に頭を痛めている小中学校の問題もきれいに解決する。もっと有意義な研究や教育に人員と予算がふんだんに振り向けられ、我が国は教育大国としての面目躍如となるに違いない。

 教育研究の場だけではなく、外交の場でも、外国語のニュアンスの違いによる行き違いはもはや生じなくなる。それに一般の外国人が言葉の壁に苦しんだり、言葉のせいでいわれのない差別を受けたりすることもなくなるであろう。 全人類の平和と発展に貢献する、ノーベル賞ものの大発明であることは疑いない(もっとも通訳や外国語教師は職を失うことになるかもしれないが、「翻訳コンニャク」の開発研究に加わっていただく救済策もあるだろう)。

 訳のわからない「波動測定器」を売るよりも、「翻訳コンニャク」を実用化した方が、確実に儲かる上に、よほど世のため人のためになるのではないか。それこそ「水伝」の掲げる崇高な理想にもかなうはずである。「水伝」で言っていることが将来科学的に証明されると本気で信じている皆様には、ぜひ真剣に検討していただきたいと思う。

 最後に勝手ながらリクエストを一つ。私は子供の頃からコンニャクが苦手なので、「翻訳コンニャク」では残念ながら食べられない。「翻訳ゼリー」か「翻訳寒天」も一緒に開発していただければありがたい(別に食べ物にこだわらなくても、水の偉大な働きをうまく取り出せて、携帯や装着に便利なものであれば何でもいいけれども)。

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2007年5月 4日 (金)

「角の三等分屋」への対処法に学ぶ

■「角の三等分屋」とは

 幾何学における「ギリシャの三大難問」はご存じの方も多いと思う。定規とコンパスのみを使って、次のような作図を行えというものである。

  • 与えられた立方体の2倍の体積の立方体を作図せよ。
  • 与えられた任意の角を三等分せよ。
  • 与えられた円と同じ面積の正方形を作図せよ。

なお定規は直線を引くためだけに用いるもので、目盛りを使ったり、三角定規で角を使ったりしてはならないし、コンパスも円や円弧を描くためだけに用い、作図は有限回数の操作で行わなければならないという条件がつく。

 問題の意図は誰にもわかりやすいが、では実際に作図するにはどうすればよいのか。この問題は2000年以上にわたって数学者を悩まし続けたが、解析幾何学や微積分学の進歩に伴って、代数的な方法によってすべて「不可能」であることが証明された。

 ところがわかりやすい問題であるだけに、「不可能」が証明されてからもなおこの問題に挑戦し、それができたと思いこむアマチュア数学者が後を絶たず、プロの数学者にとっては厄介な存在であるという。

 特に角の三等分が「できた」と思いこむ自称「数学者」は「三等分屋」あるいは「三等分家」と呼ばれている。彼らが自分一人で悦に入っているだけならまだいいのだが、それを世間に発表しようと、数学者や数学雑誌の編集者のところに論文を送りつけてきたり、実際に乗り込んできたりするのである。

 矢野健太郎『角の三等分』(ちくま学芸文庫)に付録されている一松信の解説の中に、「角の三等分屋」 という一章があり、こうした「三等分屋」の生態が紹介されている。さらに亀井哲治郎「『角の三等分家』と付き合ってみて」 という文もその後ろに付録されていて、数学雑誌の編集者として実際に「三等分屋」の相手をした経験が紹介されている。

 中でも亀井氏の「三等分屋」とのやり取りはなかなかに生々しい。通常は不可能であることを説明した上で、論文を受け取らずにお引き取り願うところを、その時はなぜか魔が差して受け取ってしまったばかりに、亀井氏が懸命に間違いを探して返事した。すると相手はそれを直したと言ってまた論文を送ってきて、亀井氏が再び間違いを探し、相手はまた直して送ってくる――と繰り返した挙句、亀井氏がとうとうぶち切れて「もう二度と送ってこないで下さい!」と電話の向こうの相手に怒鳴りつけ、やっと幕になった。しかしこの出来事は亀井氏にとってトラウマとなったというのである。

 では実際に「三等分屋」がやって来たら、どう対応するのが一番いいのか。一松氏も亀井氏も、ともにダッドリー「三等分家がやってきた――さてどうするか」(野崎昭弘訳、『数学セミナー』1983年11月)という論文を引いて、まず「三等分屋」の特徴を

  1.  概してみな年寄りで、ほとんどが男性である。何年もそれに没頭してからやっと方法を見つける。
  2.  数学で言う「不可能」の意味を全くわかっていない。「あることを不可能と宣言するのは、 その問題に手をつける以前に既に自分の限界を示すことではないか」と言い出す人までいる。
  3.  みなほとんど数学を勉強していない。せいぜい高校の幾何学あたりまでである。

とまとめた上で、その対処法を次のように言う。

  1.  ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。
  2.  その作図法で出る誤差についてコンピューターの検索結果を示す。その発見は単に「精度のよい近似法」 を見つけたに過ぎないことを認識させるためである。
  3.  冷酷になれ。

もっとも亀井氏は、「あれだけ数学に打ち込んでいる人なのだから、もっと別の接し方があったのではないかと、時々考えることがある」のだとも言う。

■人文系の「○○屋」

 さて人文系の分野でも、「三等分屋」のような自称「研究家」は存在する。たとえば「邪馬台国屋」 「徐福屋」あるいは「字源屋」 などには手を焼いている研究者も多いことと拝察するが、彼らの特徴もダッドリーのいう「三等分屋」の特徴とほぼ同じである。

(邪馬台国・徐福・字源などの研究家がみなそうだというのではない。学問的におよそ成り立ち得ないような奇説珍説を唱え、学界に殴り込んでくるような人を「○○屋」と呼ぶのである。)

  1.  概してみな年寄りで、ほとんどが男性である(ごく少数だが女性もいる)。何年もそれに没頭してからやっと方法を見つける。
  2.  「あり得ない」「無理」の意味を全くわかっていない。「100パーセントあり得ないわけではないのだから、 一縷の可能性にかけてみなければわからないではないか」と言い出す人までいる。
  3.  みなほとんど漢文(あるいはその他必要な科目)を勉強していない。せいぜい高校の授業あたりまでである。

このうち問題になるのは2であろう。数学での「不可能」は、完璧に証明することが可能であるが、文献の読み方における「不可能」は、完全な証明をすることはできない。それでも多くの文献の例から、「経験的に可能性は極めて低い」と結論づけることはできるのであって、便宜上それを「あり得ない」「無理」と表現するのである。しかし文献を読む「経験」を十分積んでいない人にとっては、「経験的に」ということがそもそも理解不能なのである。

 そして彼らへの対処法はどうだろうか。まず

1 ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。
3 冷酷になれ。

この二つについては、「三等分屋」の場合がそのまま応用できそうであるが、

2 その作図法で出る誤差についてコンピューターの検索結果を示す。

これは人文系の場合はそのようにはいかない。「経験的にあり得ない」という説明をするか、論理的な矛盾を突くか、あるいは相手の主張を認めるともっと具合の悪いことが生じることを示す「背理法」を用いることが、これに代わりうる対処法であるが、それでも詭弁を並べてのらりくらりと言い逃れる手合いが非常に多い。しかも相手はたいてい恐ろしく長大な「研究」を示してくるから、やり取りを続けるうちに議論がどんどん拡散し、収拾がつかなくなることも多い。

 そのような場合は「一番素朴な疑問を一つだけ提示する」 というのも手であろう。無理して細かく批判し、うっかりミスをやってしまっては大変である。相手は鬼の首を取ったように喜び、ここぞとばかりに居丈高に振る舞い出す。そうなっては手をつけられなくなる。

 あるいはわざとピントをずらした答え方をしたりして、相手に「理論」の説明をどんどん語らせ、基礎知識の欠如や誤解を露呈させるという手もあるが、これはかなりの高等戦術になるだろう。常に成功するとは限らないし、こちらがケガをするおそれもあるからである(実は私も「ケガの功名」でこの戦術に気づいた次第である)。

 また最初から罵倒調の物言いをされていたら、こちらも売り言葉に買い言葉で応酬したくなってしまうが、これもできる限り避けたいところである。「あくまで姿勢は低く、口調はソフトに、しかし切れ味は鋭く」が理想である(難しいことではあるが。私も虫の居所の悪いところへいやらしい口調の罵倒書き込みをされ、つい買い言葉で応酬して失敗したことがある)。

 以上まとめてみると、

  1.  ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。姿勢は低く、口調はソフトに、しかし切れ味は鋭く。
  2.  まずは「経験的にあり得ない」ということを説明する。
  3.  長文の場合は全部をいちいち取りあげず、一番素朴な疑問を一つだけ提示する。
  4.  食い下がってくる場合は、相手にどんどんしゃべらせ、語るに落ちさせる。
  5.  冷酷になれ。

こんなところであろうか。

■メールや掲示板の場合は

 もっとも実際には、最初から「冷酷になる」人、即ち論文を一目見てまっすぐゴミ箱に投げ込む人がほとんどであろう。忙しい研究者にとってはそれも仕方のないことである。

 しかし紙に書かれた論文ならそれでもよいが、電子メールで送られてきたような場合や、運営しているHPの掲示板に書き込まれたような場合は、最初から無視するのは難しい面もある。そこで「最初のメール・書き込みには丁寧に答えよ」ということになるのであるが、これが言うは易く行うは難しいのである。忙しい時には相手の文面を丁寧に読む気になどならないし、文面に全部書いてあればまだしも、相手のHPに誘導されて膨大な「研究」を読まされ、それが徹頭徹尾デタラメだったりしては、たまったものではない。

 そこで先に挙げた2~4の戦術を駆使することになるのであるが、実際にやるとなると思った以上にエネルギーを消費するものである。私のやっている「トンデモ『研究』の見分け方」も、最近は「その筋」にも存在が知られてきたようで、トンデモさんと直接相まみえる(といってもネット上でだが)機会も多くなってきた。

 その感想はとにかく「疲れる」。この一言に尽きる。 亀井氏の心中も察するに余りあるというものである。もともと 「トンデモさん本人を変えることは難しい」というのが私のスタンスである。 だからわざわざ文句を言いに来なくても、好き勝手にやってくれればいいものを、やはり「邪魔者は消さずにはいられない」「言い負かして金星を取りたい」という誘惑に駆られるものであるらしい。

 この種のHPを掲げる以上、それはやむを得ないことではあるが、しかしその運営に疲れて仕事ができなくなっては元も子もない。となると究極の対策は「掲示板を設けない」 ということになるだろう。

 他の擬似科学批判サイトを見てみても、掲示板を設けて精力的に書き込みをしている人もいれば、掲示板を一切設けない人もいる。掲示板を設けているところでも、多くの常連さんが書き込んでいるようなところであれば、トンデモさんもよほど肝の据わった人でない限り、入る余地はないと退散するようであるし、もし入ってきても、他の常連さんが袋だたきにしてしまうから、あまりエネルギーを消費しなくてもすむのかもしれない。

 もっとも常連さんの多い掲示板でも、一人のトンデモさんに攪乱された末に、閉鎖に追い込まれたケースもある。 「凝り固まっている人」のパワーは侮れないのである。しかもこの種の人は、いきなり掲示板を閉鎖すると「言論封殺」だと騒ぎ立てるから何とも始末が悪い。当面リードオンリーにしておいて、頃合いを見て閉鎖するのが、「言論封殺」「臭いものに蓋」と罵倒する口実を与えない方法としてはベターであろうと思う。

 私の場合は「トンデモ」コンテンツを設ける以前から、掲示板では荒らし対策に追われるおそれがあると考え、「ゲストブック」という妥協策をとっていた。訪問者と管理者の一対一での対話しかできないシステムであるが、それでも掲示板と誤解して議論をしようとする人は後を絶たない。この妥協策は失敗だったようである。もともと書き込み頻度も多くなかったし、ここは決断のしどころかも知れない。

 トンデモさん本人とは相まみえたくはないが、それを信じかかっていたり、半信半疑であるような人との対話の場は設けておきたい。というのはやはり虫のいい願いなのであろうか。それにトンデモさん本人も決して頭の悪い人ではない。 ただ「頭の使い方がずれている」 だけなのである。「我執さえ去ってくれればいいのに……」と思うことも少なくないのであって、「もっと別の接し方もあったのでは」という亀井氏の心情も何となくわかる。

 そこで先の対処法にもう一つ付け加えておきたい。

6 「武士の情け」を持とう。とどめを刺すのは最終手段。

相手を完膚無きまでに叩きのめしてしまったら、その人の生き甲斐を奪ってしまい、余計に人生を狂わせることにもなりかねないし、暴発して手がつけられなくなるかも知れない。「一番本質的な過ちは、最後の最後まで触れないで取っておく」のが、戦術としても思いやりとしても良いのではないだろうか。

■もう一度まとめ

  1.  ともかく最初の手紙には丁寧に答えよ。姿勢は低く、口調はソフトに、しかし切れ味は鋭く。
  2.  まずは「経験的にあり得ない」ということを説明する。
  3.  長文の場合は全部をいちいち取りあげず、一番素朴な疑問を一つだけ提示する。
  4.  食い下がってくる場合は、相手にどんどんしゃべらせ、語るに落ちさせる。
  5.  冷酷になれ。
  6.  「武士の情け」を持とう。とどめを刺すのは最終手段。

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2007年2月11日 (日)

水に芸術はわからない

 昨年11月に「水からの伝言」に言及しながら 「人文系の「ニセ科学」対策」について書いたところ、当ブログのアクセス数が一時100倍近くにまでふくれ上がる大反響?になってしまった。「水伝」への関心の高さのあらわれなのだろうが、果たして素直に喜んでいいのかどうか……と思っていたら、今度は朝日新聞文化欄(昨年12月11日付夕刊)の稲葉振一郎「ブログ解読」に、「水伝」とのからみで少しだけ紹介されてしまった。「水伝」はダシに使っただけなのに、このような扱いをされたことには正直困惑したが、幸い仕事に支障を来すほどの大騒ぎにはならずにすんだ。

 それでも行きがかり上、「水伝」に科学としてではなく道徳的な「お話」としての価値はあるのかという問題については一言しておかなければなるまい。この問題についても既にあちこちで言われているので、今さらという感もあるが、先日書いた 「神話伝説やオカルトは事実でなくてもお話としての価値がある」ということについて「そうか、『水伝』もたとえ事実でなくても、いい言葉を使うことを勧めているし、お話としての価値はあるのだ」などと早合点されては困るので、一応書いておくことにする。


芸術の価値は科学的現象でわかるか

 「水伝」の作者江本勝氏自身も「これはファンタジーであり、ポエムである」と言っている。「科学ではないお話なのだから堅いこと言わなくてもいいじゃない」というわけだが、その「水伝」で主張しているのは、「言語や音楽などの芸術の価値を科学的な現象に還元できる」ということである。それが果たして「お話」としての価値を持ちうるのだろうか。

 たとえばルーブル美術館にある「モナリザ」も、三文画家の描いた油絵も、化学の立場に立てば、どちらも

 油と顔料の混合物が布の上に塗られ、油が酸化して硬化し、顔料が布に固着した物体

である。その一方が傑作とされ、もう一方が駄作とされる理由を説明するのに、 絵の具やキャンバスの化学的組成の違いを云々してみても、全くナンセンスであることは言うまでもない。

 布に固着した油絵の具に過ぎない油絵も、人間の目を通して見れば、そこに単なる物体以上のものを見出すことができる。それは無限の微笑であったり、心の底からの叫びであったり、澄みきった湖であったりする。これは人間の精神の作用であって、化学や物理の法則で説明できるものではない。

 しかし人文科学の一分野である心理学は、動物や人間を使って実験したり、カウンセリング治療の経験を積み重ねたりして、こうした精神の働きにもいろいろな法則を見出そうとする。また美学では古今の文献を渉猟することにより、人々が美をどのようにとらえていたか、どんなものを美と呼んだのか、美が文化にどんな影響を与えたのかを追究しようとする。人文科学はいわば「人の精神の働きを科学する学問」 なのであり、それは自然科学とは別の範疇で論じられるべきものである。

 ところが「モナリザ」が傑作である理由を、あくまで絵の具やキャンバスという物体に求めようとするとどうなるだろうか。まず考えられるのが、絵の具の組み合わせや位置に法則性を見つけようとする試みである。しかしこれはうまくいかないであろう。たとえ「モナリザ」と同じ絵の具を使い、同じような構図と色づかいで模写したとしても、贋作はダヴィンチを簡単には超えられないし、反対に「モナリザ」を撮影した写真や、その写真を掲載した書物は、実物の「モナリザ」とは物体の組成が全く違うのに、実物同様に人々を感動させられるのである。

 (名画をパーツに分けて、その位置関係をコンピューターで分析し、 そこに一定の法則を見出そうとする計量分析的手法も試みられているが、それでわかるのはたとえば 「美人画は北斎と広重と歌麿ではそれぞれ異なった一定のパターンがある」といったことであって、 「どんなパターンで描けば名作ができるのか」といったことがわかるわけではない。)

 ところが実はもっと簡単な説明のしかたがある。

 「名画からは名画特有の良い波動が出ています。 それは画家の清らかな心から乗り移ったものです。人はその波動と共振することによって感動し、心が清められるのです。 それに対して駄作からは悪い波動が出ているので、人は嫌悪感を抱くのです。 駄作しか描けないのは心が曲がっていて悪い波動が出ているからです。 この波動は従来の科学では見えない、未知のエネルギーなのです。」

 この「波動」は「オーラ」に変えてもよい。これならどんな芸術の良し悪しも説明できそうに見えるであろう。「科学と精神活動を結合させた画期的な理論」だと飛びつく人もいるかもしれない。しかしこれには重大な落とし穴が潜んでいるのである。

 上の説明では名画から良い波動が出るということはわかるが、では結局良い波動と悪い波動をどう見分ければよいのかとなると、これではさっぱりわからない。第一名画を残した画家がすべて「清らかな心」の持ち主とは限らないし(ヒトラーも絵は上手であったし、妻子を捨ててタヒチに出奔したゴーギャンの心の良し悪しははどう評価すればよいのか)、 立派な心の持ち主でも絵が下手な人はいくらでもいる。それに谷岡ヤスジの漫画は名画とは比較にならないひどい絵だが、それでも高く評価されているではないか。

 そしてもう一つの落とし穴は、もし名画から良い波動が出て、それが見る人の心に共振するのならば、 「名画を見て感動しない人」は「悪い心の持ち主」ということになりはしないかという危惧である。ピカソやダリの絵が嫌いだという人は「心が曲がっている」のだろうか。岸田劉生の描いた麗子像を4コマ漫画のブスキャラクターに流用した漫画家はどうなるのか。江戸時代の春画に至っては、「正視に堪えない」という人と「情欲に満ちた女の表情はまさに芸術だ」という人とどちらが「心が清い」といえるのか。

 たとえ名画といえども、万人が皆それをすばらしいと思うわけではない。嫌いな人もいて当然であるし、絵を理解しない人はそれにもまして多い。名画の名画たるゆえんを「波動」のような即物的な要素に還元しようとすれば、 誰もが同じようにそれに反応しなければおかしいという「価値観の押しつけ」になってしまうのである。小室哲哉がその絶頂期に「僕の歌をまだ聴こうとしない不思議な人がいる」などと豪語していたのを新聞で読んだ記憶があるが、その結果「不思議な人」がいなくなったかどうかは今さら言うまでもないだろう。この一言でアンチ小室になった人も相当いると私は見ている。「小室の歌を聴かなければ変人である」などと、当の小室に勝手に決めつけられては、「あんた何様?」と言いたくもなるであろう。芸術の好みという「内心の自由」にまでずかずか踏み込んでくるという点では、「名画波動説」もこれと同じなのである。

 かくて「名画波動説」はいとも簡単に破綻してしまったわけだが、結局のところ「良い」と「悪い」、「心が清らか」と「心が曲っている」というように、 単純な二分法で芸術を説明できると思い込んでいることに問題があるといえる。 人間の精神や文化活動とは、白か黒かで割り切れるほど単純なものではない。 波動やオーラという概念を持ち込んでみたところで、芸術をまともに評価することはできないばかりか、芸術を冒涜することにさえなってしまうのである。


■「水伝」の限界

 私が何を言いたいかはもうそろそろおわかりのことであろう。「水伝」もこの「名画波動説」と五十歩百歩なのであって、水を使えば波動の良し悪しがわかると言うのが少々目新しいだけのことである。しかし江本氏の主張によれば、絵画でも音楽でも文学でも、 水でわかるのは「良いか悪いか」だけである。それがすばらしいことなのだとしたら、芸術とは何と貧困なものなのであろうか。芸術家も研究者も評論家も全くなめられたものである。

 芸術作品を評価するとは、単に良いか悪いかを決めることではない。 その作品を通じてどんなことが読み取れるのか、それが人々にどのような感動をもたらすのかを、持てる教養を総動員して言語化することである。たとえ水の働きがどんなにすばらしくても、水にそこまでやってくれることを求めるのは誰が見てもナンセンスであろう。

 同じように言葉も単語だけ取り出して「良いか悪いか」を決めて事足れりとするのでは、まともに評価したことにはならない。 言葉はそれが発せられた文脈の中で初めて意味や価値を持つのであり、文脈を読み取らなければ何も始まらないのである。

 たとえば「言語」という言葉はそれ自体はプラスでもマイナスでもなく、全く無価値である。しかし口下手な人や吃音癖のある人に向かって、悪意に満ちた表情や態度でこの言葉を投げつければ、人を傷つけることができる「悪い言葉」となる。「口下手な人や吃音癖のある人に向かって」「悪意に満ちた表情や態度」という「文脈」があって初めて「悪い」という価値が生じるのであって、「言語という言葉は差別語ではないのだからいいじゃないか」と開き直っても、それはクソガキの減らず口にすぎない。

 これを踏まえた上で、江本氏の主張するように水が言語の良し悪しを見分けると仮定して、もし「言語」と書いたラベルを貼った水を凍らせたとしたら、さてどんな結果が出るのだろうか。考えられる可能性は次の二つである。

(1)何の文脈もない単語のレベルでなら「言語」は無価値なのだから、水は何の反応もしない。
(2)どんな文脈で使われたのかも水が判断してくれるので、もし悪意ある使い方をしていたのなら汚い結晶ができるし、 人をほめる文の中で使えば美しい結晶ができる。

江本氏の主張に従うなら、(2)はあり得ないであろう。なぜなら「ありがとう」なら常に美しい結晶ができるというのが「水伝」の売りなのであり、場合によって結晶が美しくなったり汚くなったりするのでは、「水伝」の売り自体が意味を成さなくなってしまうからである。

 以上の思考実験から、水は文脈までは判断してくれないと考えざるを得ないのであって、 言語の価値判断装置としては極めてお粗末であるといえるであろう。だが「文学作品は美しい言葉を使うからすぐれた作品になるのだ。水が一つ一つの言葉の美しさを判断できるなら、作品という文脈全体の美しさも判断できるのではないか」という人もいるかもしれない。

 そういう人には開高健『日本三文オペラ』を読んでいただきたい。戦後十年を経た大阪の、砲兵工廠跡地に夜ごと出撃する鉄屑さらい達を描いたこの小説の、これでもかと次々に繰り出される、汚穢にまみれた描写にはきっと胸が悪くなってくることであろう。しかしこの小説は「汚らしいから悪い小説」なのでは断じてない。どん底の世界に生きる人々の、掃きだめのような汚濁の中でうごめく凄まじいまでの生命力、そして彼らの一糸乱れぬ団結と温かい心のつながり。そこにはまぎれもない「美」がある。汚らしい言葉の数々に顔をしかめながらも、読み終わったら不思議な爽快感が残るのである。これこそがコップ一杯の「水」なんかには逆立ちしてもわかるわけのない、芸術の奥深さである。


■価値判断を「水」任せにする危うさ

 「水」のメッセージに感動して「ありがとう」を言うようにしよう、というのは、それだけを見れば悪い話ではないようにも見える。日本の昔話には「正直者が善行をしていい目にあい、心のよこしまな者がそれをまねしてひどい目にあう」という勧善懲悪型の物語が多いし、テレビドラマの「水戸黄門」が「偉大なるマンネリ」と言われながらも高い人気を誇っていることからもわかるように、現代の日本人も勧善懲悪ものが好きであることには変わりがない。「水伝」が学校現場にまで広がったのも、勧善懲悪の要素を多分に含んでいることがその原因の一つに数えられよう。

 しかし他人に対してする行動が善行かどうかは、その「文脈」全体を見なければ判断できないことである。たとえば「百万本のバラを贈る」という行為も、それだけでは善し悪しは判断できない。

 死ぬ前にバラを一目見たいと願っている病床の少女に、その肉親なり恋人なりがなけなしの金をはたいて贈った。

というのであれば立派な行為だが、

 ある女性につきまとい続けている男性が、その女性を振り向かせるために贈った。

のであれば、女性にとってはほとんどの場合単なる迷惑であろう。現代の日本なら確実にストーカー防止法違反でしょっ引かれることになる。だが女性がそのような一途さにほだされてしまうことも、万に一つくらいはないわけでもないのだから(そうでなければドラマ「101回目のプロポーズ」も生まれてこない)、 人間関係における善悪の判断とはことほど左様に難しいのであり、それこそが恋愛や友情の機微なのである。そしてこのような機微こそが芸術の源なのである。

 浮気は悪いことというのが現代日本の社会通念である。それにもかかわらず、中河与一の『天の夕顔』が傑作とされ(個人的にも不倫を濡れ場なしでこれほど美しく描ききった小説はないと思う)、渡辺淳一の『失楽園』や『愛の流刑地』があれほど好評を博したのはいったいどうしてか。「水」に小一時間問い詰めたところで答えはわかるまい。「浮気は悪だから浮気を描いた文学も悪。お水さんに聞いたらきっと汚い結晶を見せてくれるよ」という人もいるだろうが、それなら恋愛文学が「堕落したブルジョアの文学」「時局に合わない軟弱文学」として容赦なく弾圧された、文革期の中国や戦時中の日本こそが、きっと彼らにとってのユートピアに違いない。

 「水」が教えてくれる上っ面の「善悪」だけで芸術の価値を判断しようとすれば、芸術そのものを破壊することになりかねない。

 だとすると、言葉や芸術の良し悪しが「水」でわかってしまうと早とちりするのは、やはり得なことではないだろう。どんな芸術作品に接しても、その「機微」に触れることなく、うわべだけで良し悪しを決めつけてしまい、薄っぺらい感動しか味わえなくなってしまうからである。まして人の言葉の片言隻句を取り出して、文脈を無視して「良し悪し」を決めつけようとするのでは、 人の言うことを曲解したり、いじめの口実に使ったりすることにもなりかねない。もしどこぞの宰相が憲法前文の上に乗せた水を凍らせて、「ちっとも美しくない」結晶を選び出して「ほら見ろ、憲法前文なんて悪い言葉でいっぱいだ。水も憲法を変えろとメッセージを送っているんだぞ」などと言い立てたら、「水伝」を信じる人はホイホイと同調するのだろうか。

 (護憲派の人が同様の実験をして、「美しい」結晶だけ選んで「憲法前文はこんなにすばらしいのだ」 と主張したとしても同じことである。憲法の是非の判断を水に任せてしまうのが良くないのであって、 憲法改正に賛成することの是非を問題にしているのではない。もっとも法規の条文に芸術的価値など始めから求められていないのに、 美醜で憲法の是非を論じようとすること自体が既にナンセンスであるが。)

 もう一度言う。江本氏の言う「水」は、芸術の価値を判断する装置としては、あまりにもお粗末である。人文科学の立場から見ても、このようなものに頼ったとて有益な発見など到底あり得ないし、「お話」としても三文小説以下の薄っぺらい駄作である。本気で「いい言葉」や「いい音楽」をわかるようになりたいのなら、もっとすぐれた作品を、 水任せではなく自分の心で味わってほしい。同じ「水からの伝言」というなら、『老子』の次の言葉の方が、よほど深いメッセージを含んでいると思うのだが。

 上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡、故幾于道。
 上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して争わず、 衆人の悪(にく)む所に居る、故に道に幾(ちか)し。

――最上の善とは水のようなものだ。水は万物に恵みをもたらしながら名利を争うこともなく、人々の嫌がる低湿地に集まっている。 だから水は「道(万物の根源)」に近い存在なのだ。

(これはあくまで「哲学」「処世訓」としてのたとえ話である。自然科学上の水の諸現象に結びつけるべき話ではない。野暮は承知で念のため。)

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2006年12月24日 (日)

人文系の研究者は神話やオカルトを信じるか ――あるいは「神話やオカルトとのつきあい方」――

 科学が世の中をバラ色にしてくれると誰もが信じていた時代はとうに過ぎ去った。そこで科学以外のものに救いを求めようとする人々も当然出てくる。救いや拠り所を求める相手として一番手っ取り早いのはやはり「神」である。既成宗教にいう神仏の場合もあろうし、新興宗教の教祖の場合もあろう。また魔術や占いのようなオカルトの場合もあろうし、それらをよりソフトに言い換えた「スピリチュアル」に傾倒する人もいる。

 彼らの中には神や霊魂の実在を認め、自然現象や社会現象を神が操っていると本気で信じたり、霊能者と称する人が「…… という現象は霊魂のせいだ。自分にはそれが見える」と言うのに対して何の疑いもはさまず熱狂する人も少なくない。

 しかし自然科学の研究者はいわゆる「霊能者による霊視」を本当のこととは認めないし、それ以前に自然科学の研究対象にはしない。なぜなら霊能者本人が「見える、見える」と言っているだけでは、霊の存在は「検証不可能」だからである。誰にでも見える形で、しかもトリックの入る余地のない厳密な条件で、「霊以外の原因は考えられない」と言える客観的な証拠を示すことに成功したと認められた霊能者はまだいないし、もし百歩譲って霊が実在すると仮定したら、自然科学の法則に照らして具合の悪いことがたくさん出てくることも、安斎育郎『霊はあるか』(講談社ブルーバックス)で指摘されている。

 神や霊魂を信じる人々も、そんなことはもちろん百も承知であろう。そこで自然科学そのものを「科学でもわからないことはたくさんあるのに、神や霊魂の実在を否定するのはおかしい」と攻撃したり、「科学では神や霊魂は実在しないが、スピリチュアル的なものの見方は科学とは異なるものだ」と、自然科学と同じ土俵に乗るのを避けたりする。

 前者のような主張に対しては、自然科学者の側から既にさまざまな反論がなされているから、ここで改めて取り上げる必要もないだろう。しかし後者のような主張をする人の中には、宗教学・神話学、あるいは精神分析などの人文科学なら、神や霊魂の実在を証明してくれるかのように思っている人もいるようである。ひょっとすると自然科学の研究者の中にも、宗教学者は神を信じているかのように思っている人がいるかもしれない。

 しかし結論から言うと、宗教学者も仏典や聖書に書いてあることをすべて真実だと思っているわけではないし、神話学の研究者も神話に書かれていることがすべて本当にあったことだと信じているわけではない。昔話や民話の研究者も、民衆の語り伝えた不思議な物語が本当に起こりうるとはもちろん信じていない。

 聖典や神話伝説の研究者の仕事は、それらに書かれていることの真偽を判定することではない(テキスト自体が後世の偽作ではないかという意味での「真偽」なら重要なことだが)。本当かウソかはひとまずおいて、その泥沼をエイヤッと飛び越えてしまうのである。 「昔の人々はそれを信じていた」という事実の方がずっと重要なのであって、 そのことが人々の思想や芸術、行動様式や社会にどのような影響を与えたかということが、研究者の一番の関心事である。だから話自体が本当かウソかは、有り体に言えば「どちらであろうと自分の研究テーマには影響しない」なのである。

 「霊能者による霊視」も、人文系の研究者なら「それが本当かどうか」にはほとんど関心を示さない。それよりも「霊能者と称する人々がいて、それを信じて有り難がる人々がいる」という事実をまず認めた上で、

  • 霊能者を信じて「癒やされる」心理はどのようなものか
  • 霊能者はどのような歴史的経緯で現れてきたのか
  • 霊能者の社会的地位や役割は時代とともにどう変わってきたか
  • 霊能者の語る霊視にはどのようなパターンがあるのか

といったことの方を解明しようとするのである。もしあえて「霊能者の言っていることは本当なのか」と人文系の研究者に尋ねたとしても、恐らく自然科学者と同じような答えしか返ってこないだろう。即ち「科学的にはウソでしょう」「それを決めるのは私の仕事ではありません」といった、ごく常識的な答えである。

 もしあなたの志望する、もしくは在学する大学に神話やオカルトを研究している先生がいたとしても、「江原某の主張が正しいことを証明したい」「言霊の現実性を研究したい」「陰陽師の方術は本当かどうか確かめたい」などといった動機で入門すれば、必ずや当てが外れることになるであろう。学問の世界では「お話」はどこまで行っても「お話」 なのである。「何だつまらない」と言う人もいるだろうが、「お話」は真偽にこだわらなくても、「お話」のままで十分楽しめるではないか。古代人のすさまじいまでの空想力に思いをはせるもよし、人の心の複雑怪奇かつ玄妙なメカニズムに驚くもよし。神話伝説やオカルトは事実でないから全く価値がないのではなく、「お話」としての価値をちゃんと持っているのであり、つきあい方次第で我々に豊かな心の糧を与えてくれるのである。

 また反対に、神話やオカルトを研究していると聞いて「怪しげなことをやっているのではないか」と引いてしまうのも早計である。授業で「布教」や「洗脳」をされるわけでもないし、「神話を信じなければ単位を出さない」などと脅されるわけでもない(もしそんなことをやっている先生がいたら、早くしかるべき所に訴えた方がよい)。神話やオカルトを「本当かウソか」「信じるか信じないか」というステレオタイプな次元ではなく、もっと別の観点から、突き放して客観的に考えてみることを学ぶのは、むしろ怪しげな言説に引っかからないための免疫ともなるはずである。

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2006年11月26日 (日)

「トンデモ原論」――人文系の「ニセ科学」対策

 科学のようで実は科学ではない「擬似科学」で今最も注目されているのは「水からの伝言」であろう。学習院大学の田崎晴明氏が最近 「水からの伝言」を信じないでくださいというわかりやすい啓蒙サイトを発表されたので、どのようなものか知りたい方はこちらを見ていただきたい。

 擬似科学(「ニセ科学」と呼ぶ人も多い)は相手にしないというのがこれまでの研究者の態度であったが、「水伝」は小学校で道徳の教材として使われるなど、自然科学の枠を越えた悪影響が目立つようになったため、さすがに無視を決め込み続けるわけにはいかなくなり、多くの学者が批判や啓蒙の活動を始めている。

 私もトンデモ「研究」の見分け方・古代研究編というサイトをやっている関係上、この問題はずっと注視してきたが、啓蒙活動をする研究者と一般の人々とのネット上でのやり取りを見ていると、いろいろと考えさせられるところがあった。以下に何点か記しておきたい。

その1 「何のためにトンデモ批判をやるのか」をはっきりさせておく必要がある

 「水伝」はその非科学性自体よりも、それが初等教育という場にまで進出してきたことの方が問題視されている。単なるトンデモなら放っておけばよいが、教育者の立場にある者がそれを簡単に信じ、道徳の教材として使おうとしたとなれば、長い目で見た被害は甚大だからである。

 つまり「無視できなくなったら批判するが、人畜無害なら放置する」というのが、プロの学者の一般的な態度である。それも一つの見識であろう。大型書店に行けば自称「研究家」のいわゆるトンデモ本はまともな研究書と肩を並べて堂々と陳列されているし、ネット上のトンデモサイトはそれにもまして数多い。それをしらみつぶしに叩いても、トンデモの種は尽きず後から後から湧いてくるであろうし、労多くして功少ないことは明らかである。

 しかしトンデモ研究は本当に人畜無害なのであろうか。昨今は専門家軽視の風潮が異常に高まってきているし、学者といえば「頭が固い」「小難しい理屈ばかり振りかざす」といったイメージばかりが先行しがちである。そしてネット上の情報をよく吟味しないですぐ鵜呑みにする人も増えている。一見したところ「わかりやすい」トンデモ研究が蔓延するには十分な環境がもう既に整っているといえるし、「学問とはお手軽なものだ。学者なんかもういらない」という誤解が蔓延するのはなおさら憂慮すべきことである。泥縄式に個別のトンデモを批判することとは別に、もっと一般的な 「トンデモ原論」即ち「どういうものをトンデモと呼ぶのか、どういう思考法がトンデモになるのか」ということをあらかじめ示しておくことは、決して無意味なことではなかろう。

 それに個別のトンデモ批判だけだと、自分では頭を使わずに、何でもかんでも「専門家」に「これはトンデモです、あれもトンデモです」と断定してもらいたがる人が増えてしまうことも考えられる。これではトンデモの洗脳を抜けて科学に洗脳されただけであって、根本的な解決にはなっていない。どうしても頭を使うのが苦手な人なら仕方がないが、 頭が使える人にはちゃんと頭を使うように促すことが、「トンデモ原論」のめざすところなのである。私のページもそういうコンセプトでやっている。

その2 批判する側もやみくもにするのではなく、やり方を研究しなければならない

 自らトンデモ説を発表してしまった人や、それに心酔している取り巻きを改心させるのはまず無理という点では、どの人も一致している。そこで「信じかかっている人や半信半疑の人」をターゲットにすることになるが、うっかりすると「学者は小難しい理屈ばかりこね回す」と、かえって彼らを離反させてしまいかねない。いかにして「理を尽くしながら平易に」 説くか。これは最近はやりのFD(ファカルティ・ディベロップメント=授業方法の開発研究)ともかかわってくるテーマであろう。無論私のページもまだ改善の余地は大いにあると思う。

その3 「相手の土俵に引きずり込まれない」ために細心の注意が必要である

 トンデモさんは「学問のルールに縛られない自由」を持っている(と勝手に思い込んでいる)。だからこちらがルールを持ち出せば、向こうはルール自体を否定してくる。「科学は絶対ではないし、万能でもない。お前らのルールも絶対ではない」という、一般人ならつい乗せられてしまう、ごく一部には真理を含んでいる言い訳がどうしておかしいのか。単に「科学」を強調するだけでは、これに対抗することは難しいであろう。

 まして人文系となると、そもそも実験はいらないし、見たところ「本を読んでピーチクパーチク言えばいいだけ」である。したがって真に厳密な実験で再現性を証明することを求めるという、自然科学のトンデモさんに対しては当たり前の手が、人文系のトンデモ批判では使えない。かわりに有効なのは基礎知識の欠如から来る誤解を突く方法と、 論理の矛盾を突く方法である。人文系といえども何を言っても許されるわけではなく、論理的・合理的・実証的な態度が求められるのは、自然科学と全く同じである。

 しかし前者は自らの誤解を決して認めようとしない人には通用しない。「その基礎知識こそが誤りだ」と言い張られたり、「博識を振り回すな」と開き直られたりするからである。また後者も議論のルールを知らない人には通用しない。詭弁を詭弁とも思わず平然と押し通されるからである。

 そして彼らには究極の武器がある。それは「一つの方法だけに固執するのはおかしい。学者は自分のやり方を狂信している。偉ぶって我々をバカだと決めつけるな」と、学問のルールそのものを否定してしまうことである。なるほどこれならどんな好き勝手なやり方でも押し通せるだろう。理不尽な要求をごり押しするヤクザが、抗議をはねつけるために口にする「お前そんなに偉いんかい」と同じ手口である。

 こういったセリフを吐かれると、ひるんでしまう人も多いことであろう。しかしこれらは、実は人の謙虚さにつけ込もうとする卑劣この上ないセリフである。だから我々は遠慮なくこう言えばよい。

 「少なくともあんたよりはずっと修業している分偉い」

と。
 
 学問のルールは多くの学者が長年にわたって議論を積み重ねるうちに形成されてきたものであり、トンデモさんの主張するマイルールよりはずっと普遍性を持っている。要するにどんな世界でもそうであるように、

 自分勝手や独り善がりは通らない

のである。相手の土俵に乗らなければならない義理などかけらもない。向こうが勝手に学問ぶって「類似商標」を掲げているのだから。
(もっとも一旦相手の土俵に乗った上で、そうするともっと不都合が生じることを指摘する「背理法」が有効な場合もある)

 結局人文系のトンデモさん本人に対しては、ひたすら「好き勝手を言うな」とはねつける以外に有効な手段は見いだせないようである。 「真っ向から相手にしない」という、昔から行われているやり方がやはり一番なのである。但し一般の人々に対しては、「どうしてそのような手段を取るのか」という説明をどこかでやっておく必要があろう。 そうでないと「学者は頭が固い」とか「既得権を失うのを恐れて新説を認めたがらない」とかいう誤解が広まってしまうからである。

 作家や画家のところにも、出版社やレコード会社にも、芸術家を志す人の作品が日々送られて来る。しかしよほどすばらしい出来でない限り、それらは無視される。どこがいけないかをいちいち説明して送り返すことはまずない。「それすら不可能なレベル」の駄作がほとんどだからである。こういう駄作を送り付ける人に限って、もし丁寧な説明などしようものなら、独り善がりな理屈を言ってしつこく絡みついてくることが多い。だからこういう手合いは無視するに限るのである。人文系の学問も(理系もそうだろうが)箸にも棒にもかからなければ無視されるのはこれと全く同じで、 「そんなに甘いもんじゃないよ」と声を大にして言っておくのが、少なくとも新たなトンデモさんを生まないことには資するところもあるのではないかと思うのである。

その4 熱くなりすぎない

 人文系のトンデモさんの中に、悪意の人はあまり多くない。金儲けと言ってもせいぜい自費出版の本を売る程度のもので、多くの人はただ単純に「自分の発見したすばらしい真理を世に広めたい」あるいは「昔自分をいじめた先公どもを見返したい」という一心で活動にいそしんでいるだけである。大学教員の側からみれば、彼らは箔をつけたいがために「どうか認めてちょうだい」とすり寄ってきて、無視されれば途端にアカデミズムを罵倒し出す「困ったちゃん」ではあるが、政治的な悪影響を与えかねない場合や、広範囲に広まって教育現場にも影響を及ぼしているような場合でなければ、それらを個別に叩くのは、かえって大人げない行為のような印象を与えかねない。

 しかも最近は斜めから世の中を冷笑するのがかっこいいような風潮が蔓延しているから、あまり使命感や正義感を表に出しすぎると、かえって一般の人々を遠ざけてしまう恐れがある。 「トンデモは皮肉や当てこすりで笑い飛ばす」 というのがやはり一番であろう。東海大学の春田晴郎氏のサイトはこの点とてもよくできていると思う。私もなるべく「笑い飛ばす」ことを心がけてはいるが、いかんせんギャグのセンスには乏しいので、なかなか思うようには行かないでいる。

 その上啓蒙活動に力を入れすぎると、同業からも胡散臭い目を向けられるという、非常に厄介な問題もある。研究あっての啓蒙活動であるから、本来の研究もちゃんとやっておかなければ、「上をめざす志を失って、下ばかり見て安心するようになった」と陰口を叩かれかねない。学界には「批判するなら自分よりも大物を批判しろ」という格言?もあるのだから。

 私のページも別に使命感や義憤だけで始めたわけではない。自分自身が神怪が多く登場する文献を研究テーマにしていることもあって、怪しげな人から問い合わせが来たり、論文が送り付けられてきたりすることが度々あったため、「いかがわしいことはやりません」という意思表示をしておく必要があるだろうという、ごく私的な思惑の方が大きい。だからこの活動を本業にするつもりはさらさらないし、組織立って何かやろうとも考えていない。トンデモ批判が自己目的化してしまうと、魔女狩りになってしまう恐れもあるのである。

結論

 いろいろ並べてみたが、結局人文系の研究者としては、やはり各人がそれぞれの分野で「トンデモ原論」を何らかの形で公にしておくのが、啓蒙活動として、また教育活動としても現実的であるように思う(特に日本古代史や日本古代文学の人にはぜひやってほしい。人文系では恐らくトンデモさんが一番集中する分野だから)。とはいえそのためにわざわざ組織を立ち上げたりすれば、ケンカや対立のイメージをあおることになりかねないから、志ある人同士で緩やかに連携を保つ程度で十分であろう。

 古代日本や古代中国を専門とする未来の研究者にとっても、大学に就職すれば「トンデモさんの襲来」は必ず経験することであるから、その場で当惑しないためのノウハウとしても、「トンデモ原論」はあった方がよい。

 それに何よりも、社会学的・心理学的・文化史的に「トンデモさんの心性」を考察するのは人文系の研究者の得意分野のはずである。自然科学の「トンデモさん」への対処法にも、「トンデモ原論」はいくらか資するところはあるのではなかろうか。

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